自ら問いかける修行
6月20日(木) 半制大攝心・初日
<僧堂中庭にて>
管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
論語に「之(これ)を如何(いかん)せん、之を如何せんと日(い)わざる者は、
吾之を如何ともすること末(な)きのみ」という言葉があります。
ただ他人から言われたことを言われたとおりにやるのではない。
どうしたらいいのか?どのようにしたらいいのか?と自ら問いかけてくる
ような者でなければ、私にはどうしてあげることもできないという意味の
言葉です。
円覚寺開山・無学祖元禅師の語録の中にも「瞎驢(かつろ)磨(ま)を推す」
という言葉で、目の見えない驢馬が言われるがままに、訳も分からずに、さぼっていると
たたかれるからとの理由でグルグルと回って臼を押しているように、そういう修行では
あってはならないと戒めています。
お釈迦様も仏道は磨牛のごとくあってはならないと仰せになっています。
牛が臼をひかされていますが、牛自身、何の為にやっているのか?これをやって
どうなるのか?疑問を持たずに、やらないと叱られるからの理由だけでグルグルと
臼をひくために回っています。そういう修行では、何の為にもなりません。
新しく入ってきた人は、いろいろと覚えることで精一杯であろうかと思いますが
「どうしてなのか?」「どうすればいいのか?」と自分から疑問を持ち、これを
問いただしていこうという気持ちがなければ、いくら指導をするといってもどうにも
なりません。
ただ、言われた通り言われたことやるばかりではなく、「これはなぜなのか?」
「どうしてなのか?」「どうしたらいいのか?」と自らに何度も問いかけて求めて
修行に取り組んでいただきたい。
<アジサイ・雨に濡れて>