私たちのこころは晴れ渡った空。
5月25日(土) 月並大接心・6日目
管長様が今日の僧堂接心で提唱されたことをまとめてみました。
この声を聞いているものは何ものか?臨済禅師はそれを仏であると言いました。
聞いているものは何ものであるか?この体が聞いているのかというと、この肉体の
どこを切ったところで聞いているものは出てこない。
昔の人は心というと心臓を思い浮かべましたが、それはポンプのようなもの。
それでは脳みその中にあるのかというと、脳は神経が電気回線のようにはりめぐして
いるだけで聞いているものはそこには見当たらない。
しかし、何の姿かたちはないけれど明らかに聞いているものがある。それを
しいて言えば、仏心・仏性・生き通しものであると言えるのでしょう。
聞いているものは何ものであるのか?をずっと究めていくと見ているもの
聞いているものがなくなってきます。見るものも見られるものも全く消え果て
しまう。
煩悩が起こる様子というのは、ちょうど晴れ渡った空に雲が起こるようなものです。
煩悩はもともとそこにあるものではない。澄み切った空にポッと雲がわき起こったような
ものです。
晴れ渡った空が私たちのこころの本性なのです。その晴れ渡った空のようなこころに
ふれることができて、「澄み渡った一面の空があるだけであった!そこには我(われ)と
いうものはどこにも見当たらない」と気づくはずです。
我という 小さき心を 捨ててみよ
三千世界に みつるいのちよ
とこの消息を歌にしています。
また、別の歌に
もとよりは 仏と同じ 我ながら
何とてかくは 迷いぬるらん
もとは仏様と同じであるはずなのにどうしてこんな風な迷い自分と
なってしまったのか。という歌です。こんな自分ではいけないと発憤しなければ
いけません。
こころの本体は何であるかと深く思い聞いているもの、見ているものは
何もであるかと強く疑う心があれば、仏は必ず目の前にあらわれるのです。
いのちの手を伸ばす。