本性に目覚める修行
5月26日(日) 月並大接心・最終日
管長様が今日の僧堂接心で提唱されたことをまとめてみました。
各々持って生まれたものは仏心であります。仏様のこころと私たちのこころと
何ら変わることはない。その本心を見失い外の世界に振り回されたのが迷いの
世界です。
外の世界をいくら研究し究めて、科学技術を発達させて、いろんなものをこれ以上
こさえようと、作ったものに人間がもう手を負えなくなってきているのではないか。
外に向かう心を改めて、私たちはもう一度、内へ、つまり自分の本心に立ち返る工夫を
しなければならない。自分の本心に目覚める修行でありますから誰でもできるのです。
もともと本心から迷いの心を起こしたわけだから、もと来た道をたどれば、本心に
至ります。
姿なき こころと知りて 使いなば
広き宇宙に みちわたるらん
その本心は仏様のこころと一つ、仏心・仏性は天地に満ちたもの、広い
宇宙に満ちわたったこころです。
(後記)
今日の提唱の中で管長様が神道の身中祓詞(みなかのはらいのことば)という祝詞
を紹介されました。私たちのこころの本性には何のけがれもないことを言っている
祝詞です。以下、全文です。カッコ内は管長様の解説。
「天照坐皇大神の宣く。人はすなわち天下の神物なり。
(私たち人間は神様が作ったものであるという。)
須らく静まることを掌るべし。心は則ち神明との本の主たり。
わが心神を傷ましむることなかれ。
(心はその神様の主である。心が神様を作り出す。十牛図にも私たちのこころは
諸仏の源であるとあります。この心と神様は一つのもの。だから、この心を
傷つけたり穢したりしてはいけない。)
是の故に。 目に諸々の不浄を見て心に諸々の不浄を見ず。
(目でどんな穢れたものをを見ても心では何の穢れも見ていない。)
耳に諸々の不浄を聞きて心に諸々の不浄を聞かず。
(耳でどんな穢れたものを聞いても心には何の穢れも届かない。)
鼻に諸々の不浄を嗅ぎて心に諸々の不浄を嗅がず。
口に諸々の不浄を言ひて心に諸々の不浄を言わず。
身に諸々の不浄を触れて心に諸々の不浄を触れず。
意に諸々の不浄を思ひて心に諸々の不浄を想はず。
比時に清く潔よきことあり。
諸の法は影と像の如し。
清く浄ければ仮にも穢るることなし。
(世の中のことは影、形が鏡に映るようなもの。
どんなに穢れたものを見ようと聞こうと、影が鏡に映るようなもの。
鏡は映すだけでそれ自体は汚れないように心の本体は何の穢れもしない。)
説を取らば得べからず皆花よりぞ木の実とは生る。我身は則ち六根清浄なり。
六根清浄なるが故に我が身中主安らかなり。
我が身中主安らかなるが故に天地の神と同根なり。
天地の神と同根なるが故に万生の霊と同体なり。
万物の霊と同体なるが故に為すところ願ひとして成就ずといふことなし。