苦しみを見る人
5月22日(水) 月並大接心・3日目
ユキノシタ <黄梅院>
管長様が今日の僧堂接心で提唱されたことをまとめてみました。
念起則覚(ねんきそっかく)、念の起こる様子に気づけという言葉が
あります。この言葉を聞いて思い出すのが、ある事故で首から下がマヒをして
しまったタイの体育の先生の本です。
その方が仏教を学んで救われていく様子が描かれています。その方は、もちろん
坐禅はできない。そこでタイのお坊さんは次のように指導をしました。様々な
思いや考えや自分の体に起こる苦しみの様子をしっかりと観察してそれに気づけと。
ただ、それだけを教えました。
そう教わって、この方は、自分の体が動かない絶望のどん底の中で、自分自身の様子を
きちんと観察することに徹しました。そして、まず、気づいたことは、「どうしてこんな目に
遭ったのか」「元気な体に戻りたい」などという自分の思いや考えが自分自身を苦しめている
ということでした。
そして、さらに何年もずっと繰り返し繰り返し自分の心のうちだけを観察していると
この思いや考えは何の実体もない、しかし、その実体のないものに自分が引きずり回され
苦しんでいるとわかったのでした。
考えや思いが起こる様子はあたかも大空に雲がわき起こるようなものです。その中に
自分が取り込まれてしまったら苦しみに陥ってしまう。しかし「即覚」です。冷静に
観察をする。そうすれば、思いや考えは心に現れた一つの現象にすぎない。心の本体
そのものでは決してない。
つらいとか苦しいという感情は、空っぽの心が先にあって、そこにお客がやってくる
がごとく、ふっとわいてくる。そして用事が済んだらお客がさっていくように、
さんざん考えた末に、思いや考えは消えてしまう。
その様子を繰り返し眺めながら自分の心が思いや考えに占領されないように
しっかりと気がついて守らなくてならない。これをやっているうちにその方は
自分は苦しみの人ではない。確かに体は苦しみかもしれないが私の心は何の
苦しみも傷もついていないと気づくのです。
諸行無常 是生滅法という言葉がありますが、よく誤解をされて
使われています。諸行無常とは物理的にものが移り変わることだけを
言っているのではありません。
諸行の「行」とは、心のハタラキです。念がわいて起こって持続させるハタラキをいう。
思いや考えを引きずる、持続する様子です。これが無常であると言っているのです。
思いや考えは生じては滅する、ただ、それだけのものであるということです。
そして生じて滅し終わったら、心の本体は常にきよらかで安らかな、涅槃寂静
であると。それは私たちの心の様子です。
そのタイの方は自分の念がわいてくる様子を観察することによって、
苦しみに引きずられる人でなく、苦しみがわいてくるのを見る人、
見定めることができるようになりました。
その瞬間、私のこころには何の苦しみもない、何の障害もないと気づいた
のでした。