我を忘れて人の為
4月23日(火) 入制大攝心・中日
管長様が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
山田無文老師に次のような逸話があります。ある学生が駅のホームで
たまたまそこに居合わせた無文老師に質問をしました。「自分は自分が
わからない。自分とはいったい何でしょうか?」と。
老師は次のようなことをお答えになったそうです。「そうだな、まあ、
君はこれから少し自分のことを勘定に入れないで何か人様の為に一生懸命
働いてみる、尽くしてみることだ。とにかく一生懸命人様の為に何かやって
差し上げることだ。
そして、ああ良かったな、喜んでもらって良かったなと感じる自分がもし
あれば、それこそ真の自分だ」と。
この無文老師の言葉というのは、自他一如の世界、仏心のあり方を実に
平易に端的にお説きくださっています。こういう気持ちが大切です。
みんなに慕われる和尚さんとなるにはどうしたらいいか?みんなの
より所としてくれるお寺とするにはどうしたらいいか?
「己なきものこそ 安らぎあり」
これはお釈迦様の悟りの端的を表す言葉です。私心(わたくしごころ)
のないものこそ、一番の安らぎを感じる。
自分のお金儲けのことを考えてばかりいる人はいつもいらいらしている
しているから、そういう人には人が寄りつこうとしない。「お金儲け」を
「悟り」に置き換えてもたいして変わらない。
自分の悟り・解脱ばかりにとらわれて、いつもカリカリしている人も
寄りつきがたいものです。
いつも皆様の為に何かお役に立てることはないか?とそのように私心を
捨てて無心でいることこそ、周りの人たちに一番安らぎを与えることが
できるのです。
そのような和尚さんは、一目お目にかかるだけで何やらホッとした気持ちになる。
そのような和尚さんのいるお寺にはそこに行っただけで安らかな気持ちになる
ものです。
私心を捨てて、己中心のものの見方を捨て、もっと端的に言うと己を忘れる
ことです。道元禅師の言葉に「仏道を習うは自己を習うなり。自己を習うは
自己を忘ずるなり」とあります。
己を捨てるのが坐禅の肝心なところあります。
(後記)
この花の名前は、都忘れ(みやこわすれ)。己忘れ、都忘れ。
ちょうど、黄梅院の庭に咲き始めました。