天地一杯の命
11月21日(水) 月並大攝心2日目
管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
仏心は天地一杯の命であります。春になれば、草木に花が咲く
のも、秋にこうして紅葉するのも、虫が鳴くのも、鳥が空を飛ぶ
のも、みんな一杯の命であります。
草木、虫、けもの、山河大地、みなひっくるめて一枚の仏心です。
仏心の他に蟻のひげ一本もありはしない。この世に、仏心ならざるものは
ないのであります。
坐禅をして、今まで自分だ自分だと思いこんでいた、この何かかたまり
のようなものがガラガラと音を立てて崩れると「自分は、なるほど、
天池一杯に満ちあふれている、生まれたということもない、死んで
どこかにかくれるということもない、もうこの天地一杯に充満していて
どこにも行きようはありはしない。」という無我の道理に気づくはずです。
この道理に気づいて「もう、どこにも行きはしないのだ。今に生き通しの
命である。」と自分の身体全体が喜びに打ち震えるでしょう。
無常であり無我ということは、決して時間的に暗い、物寂しい見方では
ありません。また、涅槃寂静というと、何やら死んで枯れてしまうように
思われがちですが、そうではなく、天地一杯に充満した命の大いなること
深さであります。