生死を超える道とは?
9月17日(月)
管長様が本日の居士林会で提唱されたことをまとめてみました。
夢窓国師というお方はたとえ自分がどにような批判をされようとも
「仏法の教えを伝えていくにはどうしたらいいのか?」というそのこと
だけを大切に願った生き方をなさったのであろうと思います。
後醍醐天皇についたり、足利氏についたりとよく節操がないと後世に
至るまで批判されています。しかし、ああいう、後醍醐天皇や足利尊氏といった
当時権力を握った人々は、ましてや乱世の英雄でありますから人物を
見抜く力は十二分にあったと思います。
もし、夢窓国師が自分だけの都合、名誉、我欲によって行動して
いるのならとうにそれを見抜かれて排斥されているでしょう。
私心なし、その人は純粋であると感じられたたこそ、様々な
立場の人達から大事にされたのでありましょう。
夢窓国師がいた寺というのはどこも立派な庭が残っています。
これは夢窓国師の「庭を眺めることによって少しでも人々に心を
澄ませて欲しい」という願いが現在まで息づいている証です。
我が身はやがて消えてなくなりますが、しかし、夢窓国師の
願いといのは、京都の天竜寺や鎌倉の円覚寺、瑞泉寺などに
今にこう息づいています。
自分だけが死ななければいいというのは死の克服ではありません。
我が身はたとえ朽ちるともこの願いは尽きることはない。
夢窓国師は平和と人々の安寧を祈り願って生涯を過ごされました。
ですから、そこに平和や安寧を祈り願う人々がいる限り、
そこに夢窓国師は生きていらっしゃるのであります。
「人々の苦しみ、世の中のわざわいがなくならない限り、
我が願いはつきることはなし」というのが夢窓国師の願いで
あります。
生死を超える道というのは、願いを持って生きていくこと
であります。