只一枚にとけ合っていく
4月22日(日)攝心3日目
管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
人はそれぞれ理想を求め、夢を追い求めます。
修行する者でしたら仏を求め、法を求め真理を求めます。
いわばそれを例えて言うならば、ザルで宝の珠をすくおうと
するようなものであります。
ザルというのは、めいめいの自我・知識です。これを得たい、
これを得たいと竹のザルですくおうすくおうとしているのと
同じであります。
「泥団を弄する」という言葉がありますが、結局は宝の珠を
求めて泥だんごをこねくり回しているようなものなのであります。
泥だんごとは、自分の勝手な理屈、自分勝手な道理のこと
であります。そんなものいくらこね繰り返したところで宝は
遠くして遠しであります。
なにかこれという言葉を得たい、なにかこれで納得いく道理を
得たいと求めに求め続けるのですけれど、冷静に見れば
それは自分で勝手な理屈をこねくり回しているのが
ほとんどではないでしょうか。
「泥牛海に入る」という言葉があります。泥だんごは
海に入ったらあとかたもなくなり、海と一つになっていきます。
そうするとザルですくおうとしてもすくうことはできない。
水の中で水をすくうようなもの。ザルはもう必要ない。
泥だんごと海と一つになっていく。
ザルを放って水と一つになる。
自分の体、今までおぼえてた知識が全部抜け落ちて
大自然のはたらきと一つになっていく。只一枚に
とけ合っていく。
それは自分勝手な言葉で説明することも
できないし、いかなる理論であらわすことも
できないのであります。
つまり、宝の珠はザルですくえるものではないのであります。
それを自我や自分勝手な知識というザルですくおうすくおうと思って
いるから自分勝手な泥だんごしか入ってこないのであります。
自分勝手というザルを捨ててしまえば、水は辺りにいっぱい
満ちあふれて入るではないか。辺り一面、宝だらけではないか。
宝の中で宝をさがしていた、宝の中にで泥だんごをすくおうと
していたと気づくのであります。