百丈忌
1月17日(火)
今日は、百丈懐海禅師がご遷化された日です。今朝方、
佛殿での百丈忌の法要に行って参りました。百丈和尚は
、日本で言う奈良時代から平安時代の頃の、中国・唐の
禅僧です。そのような昔の方の法要がなぜ今に至るまで
禅宗寺院で行われているのでしょうか?
それまでの仏教教団はものへの執着・所有欲・蓄財を断つために
生産行為や労働行為を戒律で禁じていました。托鉢などの信者さんからの
ご供養で成り立っていたのですか、教団が大きくなるとなると
それではまかえなえなくなるという問題に直面しました。
そういう状況の中で百丈和尚は、畑仕事をして自ら食料を
生産することや、それまで「雑用」と考えられていた掃除・洗濯
炊事などを、お経を読むことや坐禅をすること同じように
大切な修行であると「意識改革」をして問題を解決したのでした。
ある人が百丈和尚に尋ねました。「今までの戒律に背いて
草を斬り木を伐り、地を堀り土をたがやすことは、罪の報いを
うけることになりませんか?」と。答えて云く
「罪があるか罪ないかはそれは本人の心がけ次第だ。」と。
そしてそれまで戒律で禁じられていた労働行為等を修行として
認めるのと同時に、「ならば何でもあり」とならないように
はどめとして「百丈清規」という生活規則を定めました。
それが僧堂・専門道場で生活規範となり現在に至るまで
脈々と守られています。僧堂の生活はお経を読むことや
坐禅をするはもちろん、食事の仕方やお風呂の入り方に
いたるまで、普通でしたら「当たり前」のことが、ほとんど
「儀式化」、つまり作法にのっとって行われます。
「儀式化」することで食事など一つ一つの行為が
おざなりにするのではなく意識して丁寧にするようになります。
食事をする、お風呂に入るなどの日常の「当たり前のこと」が
大切な行為として再発見されるような気がします。確かに作法に
慣れるまでは非常に窮屈に感じるかもしれませんが。
百丈和尚が仰せになったように同じ事していても
心がけ次第でそれが「修行」にもなり、はたまたたんなる
「雑用」になる。まさに私達めいめいの心がけ次第であります。
百丈和尚がご遷化されてから千年以上経ってもなお
その精神は今・現在に生き続けています。本当に
すごいことですね。