ありがたいという気持ち
12月14日(水)臘八大攝心7日目
管長様が本日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
「見性悟道」といいますが、いっぺんにがらっといくのではありません。
迷いながら、つまずきながら、求めながら、失いながらであります。何か
得たような気持ちになったり、また失ってしまって失望の底に落ち込んで
だり、そういうことを繰り返し繰り返ししていくうちに覚えず知らず
「ああ!仏心の中にあった!」と気づくのであります。
僧堂の修行は別段何年いればいいというものでは決してない。
大事なことは自分の納得がいくまでやっていくことであります。
しいて申し上げたいのは私達お坊さんの一番のつとめはお経で
あります。であるから、人から「ありがたいなあ!」と思われるような
お経を読んでいただきたい。それは、声の出し方や技巧、理論・理屈では
決してありません。
では、読んでもらって本当にありがたいと思われるようなお経は
一体、どこから来るのでしょうか?
やはり、それは我々・自分自身が本当にありがたいという気持ちに
なることが一番大切であります。欲を言うならば、こうして修行をさせて
もらって本当にありがたいという気持ちが起きるまでやってもらいたい。
禪は「おもしろいところから入って、ありがたいところに抜けてこなければ
いけない。」と言われています。
ただこうして臘八で坐らせていただいて何とも申し訳ない、もったいない、
ありがたい。こうしてお釈迦様の弟子にしていただいてもったいない。
こうして円覚寺開山・無学祖元禅師のお膝もとで修行をさせていただいたて
本当にありがたいと。
何見ても 何を聞いても ありがたし
こちらがありがたいという気持ちになればもう何を見ても何を聞いても
ありがたくなってくるものであります。そうするとその人の体から
ありがたいという心が発してくるでありましょう。
「ありがたいという気持ちに自分でひたることができる」一番目指して
もらいたいところであります。
臘八はまだまだ暁天坐もあり、明朝は成道会とがあります。油断なきように
最後までつとめていただきたいと思います。