豊かな世界
10月22日(土)攝心3日目
管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
無我の所が本当に豊かであり、それを体験するのが私達の修行
であります。いくらお経や本を読んでも、そこに「自分が解釈した」とか
「自分が理解した」などの我(われ)があれば、それは迷いに迷いを
重ねてしまうことになります。
お経を読むにしても、ただ無念・無心に読むことが大切です。
ただ、声ばかりが響いているように。
ある人が六祖・慧能禅師に尋ねました。「あなたは、(修行して)何を会得しましたか?」と。
禅師云く「我 仏法を得せず。」と。私は仏法については知りません。
わかりようがありませんとお答えになりました。
そこを、知った!悟った!としていたら、そのことは「我」を交えてしまうと
いうことであります。私達の修行はどこまでも「我」を離れて忘れることであります。
また、ある人が「自分は修行してあらゆる煩悩・妄想を断ち切ることができ
外の世界を見ても、何の念も起きず、悟りの境地が増長しています。」と
言いました。それに対して禅師は「私には何の悟りもありはしない。煩悩・妄想
も断ち切ることができず、外の世界にもしばしば心が動かされてしまいます。
私に悟りはどこにもありはしない。」とお答えになりました。
ただ、我をはなち忘れることが大事であります。
この大自然の中に没入して、坐禅をしたら坐禅の姿勢の中に
我をはなち投げ入れる。お経を読んだらお経の響きの中に
ただ、ひたすら自分を投げ入れていく。わかる・わからないなどの
意識分別を全部捨てて、身も心を忘れて投げ入れていくのが私達の
禪の世界であります。
そうすると、本来無一物!何と豊かな世界であったことかと気づかされる
のであります。