難行なしにー盤珪禅師の慈悲ー
自分自身で特別大変な体験を経たあと、それをどう伝えるか、人は二種類に分かれると思います。
一つは、自分がこんな体験をしたのだから、あとの者にも同じような体験をさせようという方です。
時には、自分が体験したこと以上の体験をさせようという人もいます。
禅宗には、こちらの方が多いと思います。
自分たちも若い頃僧堂で老師に鍛えられて苦労したのだから、同じ苦労をしなければ何も得られないという考えであります。
もう一つには、自分がこんな体験をしたのだから、こんな体験をあとの人には、もう決してさせたくないという方です。
盤珪禅師は、実に後者であります。
ご自身は、それこそ血の混じった痰を吐いて、このまま死ぬのかというまでに難行苦行をされました。
しかし、盤珪禅師は、あとの者にはこんな苦労をさせる必要はないとお考えになりました。
実に「慈悲」の人であります。
譬え話で、険しい山中を歩いていて飲み水が無くなった時、ある一人が谷底に降りて、水を汲んできて、皆に飲ませたとすると、苦労して谷底に降りて実際に水を汲んだ人も、何の苦労もせずに、その水をいただいた人も、同じように渇きはやむのだと説かれました。
ですから、盤珪禅師は、自分が苦労して体験した事を、そのまま話をして聞かせ、皆は聞いてそのまま受け止めればいいのだと仰せになったのです。
「人人具足の仏心其まま用ひ得て、迷の難行なしに、心の安楽を得たる事、たつとき正法にあらずや」と語録には説かれています。
人皆は誰しも、生まれながらに尊い仏心を具えているのだ、そのことを聞いて納得して安心すればいいのだと、何もわざわざ迷い苦しむ難行をすることなしに心の安楽を得られるのだと示されました。
盤珪禅師が慈悲の人であることは、この上なく尊いと思いますが、それをそのまま鵜呑みにしてしまって、努力しない者が増えてきたから、後に白隠禅師は盤珪禅師の一門の方々を批判されるようになってゆきました。
なかなか、難しい問題です。
横田南嶺