喝
『臨済録』の一節です。
「僧有り問う、如何なるか是れ仏法の大意。師便ち喝す。僧礼拝す」
一人の僧が問うた。
「仏法の一番肝要のところをお伺いしたい」と。
臨済禅師は一喝した。僧は礼拝した。
これだけを見ますと、なんのことやらさっぱり分かりません。
質問をしてなぜ一喝されたのか。
決して、態度が悪かったからという話ではありません。
それまでの仏教学においては、我々はいくら修行しても、
阿羅漢に達するのが目標であって、仏にはなり得ないと言われていたのですが、
大乗仏教になって、みんなが仏になれる、みんな仏になる可能性がある、
みんな仏性を持っていると説かれるようになってきました。
さらには、みんなすべてが仏の現れであるという華厳の教えも説かれるようになってきました。
そんな大乗仏教の流れの中で、
仏とは、遠くにあって、我々には到底及びもつかない遙かなるものというのではなく、
お互いの心こそが仏であると、馬祖道一禅師が説かれたのでした。
更に臨済禅師は、仏とは、ほかでもないお互いのこの生身の身体に現れているのだと強調されました。
仏法は決して遠くにあるのではない、
この生身の身体、生きた人の上にありありと顕現している様子を、
全身全霊で最も端的に示したのが「一喝」でした。
ですから、最も親切なお示しということができます。
そのことを質問した僧も受け止めて、恭しく礼拝をされたのです。
決して単に怒鳴ったのではありません。大乗仏教の生粋を、全身で現されたのです。
(雪安居入制大摂心提唱より)
横田南嶺
写真は、古川尭道老師の筆の「喝」