人としての尊さ
臨済禅師の教えの特徴として、「真人」や「道人」という言葉を使われていることがあげられます。
鈴木大拙先生が『臨済の基本思想』の中で、
「心と云ひ、性と云ひ、見と云ひ、用と云ひ、知と云ふところに、
禅の特性を見よと云ってもよいが、
自分の考えでは、臨済の人思想に至りて、
これらの寧ろ抽象的なものが具体化して現はれると云ひたいのである」と説かれています。
「赤肉団上に一無位の真人有り」と説かれたのも、
まさにこの具体的「人」を強調されたのです。
元来、仏教では、超人的な神を認めませんでした。
大乗仏教になってからは、阿弥陀如来などの仏が説かれるようになりましたが、
もともと「仏」とは悟った人でありました。
仏の十号というのがございます。
仏様の十の称号であります。
一、如来(にょらい)真の人。真理に到った人。
二、応供(おうぐ) 供養を受けるにふさわしい人
三、正遍知(しょうへんち)正しく悟った人
四、明行足(みょうぎょうそく)知恵と行ないを備えた人
五、善逝(ぜんぜい) 迷いを断った幸福な人。
六、世間解(せけんげ) 世の中をよく理解している人
七、無上士(むじょうし)最高の人
八、調御丈夫(じょうごじょうぶ)人を整え指導することのできる人
九、天人師(てんにんし)神々と人間の師
十、仏世尊(ぶつせそん)めざめた人、世に尊重される人
そのどれをとっても皆人を表しているのです。
大乗仏教になって、さまざまな仏様が説かれるようになり、
仏をどこか遠い存在のように思うようになってきたので、
臨済禅師は、あえて人を強調されたのかと察します。
仏とは、真の人です。
真に人間らしい人間であります。
そしてそれは、世の中をよく理解した最高の幸せな人なのです。
布薩でいつも三帰戒を読んで、
「仏とは悟れるもの、人とし人の尊さなり」と唱えています。
人としての尊さに目覚め、人らしい人として生きる、
真の人となる教えが仏教であり、禅であります。
(雪安居入制大摂心提唱より)
横田南嶺