払子(ほっす)を立てる
『臨済録』の一節です。
「上堂、僧問う、如何なるか是れ仏法の大意。師、払子を竪起(じゅき)す。僧便ち喝す。師便ち打つ。」
(訳)臨済禅師は法堂に上った。
僧が問う、「仏法の核心は何でありましょうか」師は払子を立てた。僧は喝した。師は打った。
これまた、これだけでは、いったい何のことやらさっぱりわかりません。
払子とは、もともとは蚊などを追い払う為の道具でしたが、後に儀式に使われるようになりました。
上堂してお説法する時に、払子を振ったのです。
仏法の一番大事なところとは、何ですかという問いに、サッと払子を立てたのです。
臨済禅師の教えは、馬祖道一禅師の教えを受け継いでいます。
馬祖道一禅師の教えは、「即心是仏(そくしんぜぶつ)」といって、
お互いのこころがそのまま仏であるということが、その核心であります。
自己の心がそのまま仏でありますから、
活きた自己のはたらきは、すべて仏としての本来性の現れなのです。
自己のはたらきが、そのまま仏法の何よりも端的な現れであります。
ですから、最も端的に仏法を示すのに、臨済禅師は手近にあった払子を取り上げて、サッと立ててみたのです。
そこの仏法のすべてが丸出しになっているのであります。
そのことを受け止めて、僧が、一喝しました。
内心は、仏法の大意を有り難くいただきましたと言わんばかりなのです。
臨済禅師は、なかなかよく分かった僧だと言わんばかりに、打ったのでした。
駒澤大学の小川隆教授は、つねづね禅の特徴を、
「自己の心こそが仏であるという活きた事実を、
活き身の自己と目前の現実に即しつつ、
問答を通して求道者自身に自ら悟らせる宗教」であると示してくださっていますが、
この言葉を受け止めて、この問答を見ると、まさにその通りなのであります。
しかしながら、臨済禅師は、この問答のあとに、
仏法を求めるなら、命がけで修行しなければならないと示されて、
更にご自身が、黄檗禅師のもとで苦労して修行されたことを振り返っています。
やはり、己の心がそのまま仏であると納得できるようになるためには、
苦労して修行しなければならないのであります。
横田南嶺