自己を完成させるのが先か、人をすくうのが先か
夢窓国師の『夢中問答』の中に、興味深い問いがあります。
まず自分自身が修行して悟りを開かなければ、
人をすくうことなどできないではないかという問いです。
我々が普段読んでいます『四弘誓願文』にも、
まず第一に「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」とあって、
それから「煩悩無盡誓願断」「法門無量誓願学」「仏道無上誓願成」と続いています。
まず、悩み苦しむ人は限り無いけれども、誓ってすくおうと願い、
次に煩悩は尽きることないけれども、誓って断ち切ってゆこう、
教えを無量であるが誓って学んでゆこう、
仏道はこの上ないものだけれども、誓って成し遂げてゆこうという四つの願いです。
これをみても、まず自らの煩悩を断ちきって、教えを学んで、仏道を成就させて
それからはじめて人々をすくおうとしてゆくのが、正しい道筋ではないかというのであります。
たしかに、もっともなことのようにも聞こえます。
しかし、夢窓国師は、決してそうではないと仰せになっています。
夢窓国師のお言葉によれば、
人々が迷い苦しんでいるのは、自分自身に執着して、
自分だけの利益を求めたりしてしまうためだ。
ですから、迷いから逃れようと思うのならば、
まず我が身のことを忘れて、人の為に尽くすことだというのです。
そうすれば、
「大悲、内に薫じて仏心と冥合す」
と夢窓国師が説かれています。
仏心は、大慈悲の心です。それは、本来お互いに持って生まれたものです。
ただそのことに気がついていないだけなのです。
そこで、何か人の為に尽くそうと思う、大慈悲の心を起こせば、
自分自身の内側の慈悲の心が、我が身にしみこんでいって、
自ずと仏心と一つになってゆく。すなわち仏道が成就してゆくというのです。
薫習(くんじゅう)とは、よい香りなどが身に染みつくことを言います。
これは、おもに外の香りが我が身に染みつくことを言っているのですが、
夢窓国師は、内側にまず仏心が目覚めて、それが我が身に染みついていって、やがて仏心と一つになってゆくというのです。
逆に、自分自身の為だけに悟りを求めるなら、
それは自我に執着してしまう心になってしまうので、
自身の仏道を成就することはおろか、到底人をすくうこともできはしないのだという仰せなのであります。
まず人の為にできることはないか、何をしてゆこうという心を起こすと、
仏心が目覚めて仏心と一つになっていって、
仏道を成就してゆけるという教えなのでありあます。
慈悲を先とする教えであります。
(令和元年十月八日 花園大学禅とこころ講義より)
横田南嶺