一無位の真人
臨済禅師は、
馬祖道一禅師の「己が心、それこそが仏なのだ」という教えを、
更に一層具体化して、「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)、
一無位の真人(しんにん)有り」と説かれました。
この生身の身体に、いかなる枠にもはまらず、
一切の範疇を超えた真人があると言われたのであります。
知人の小出遙子さんが、『「私」を失っても、「わたし」は残る』と表現されているのが
「無位真人」を彷彿とさせてくれます。
小出さんによれば、
漢字で書く「私」とは、名前、年齢、性別、性格、職業、 地位、名誉、プライドなどなど、
さまざまあります。
しかし、「それらのすべてを失ったところで、
どうしようもなく残ってしまうなにかがある」と小出さんは仰っています。
そして「そのなにかこそが、本来の「わたし」」だというのです。
「そして、本来のわたしこそが、本来のいのち。
ほんとうに欲しかったのは、ほかのなにでもない、 本来のいのち、そのもの」と言われます。
そこで「ほんとうに出会いたかったのは、ほかの誰でもない、 本来のわたし、それだけ。
これさえあれば、なにもいらない。
わたしは、わたしを生きるだけ。ただのいのちを生きるだけ」と仰っています。
この「これさえあれば、なにもいらない」という心境が「無事」であります。
この「本来のいのち」を臨済禅師は、
仏心とか仏性とか抽象的な言葉で表現するのではなく、
もっと具体的な「真人」と表現されたのです。
「本来のいのち」が朝から晩まで、
寝ている間でも、ずっとはたらき続けています。それが平常心なのです。
そしてその「本来のいのち」に目覚めて、
毎日の暮らしを生き生きと、活発にはたらいてゆくというのが、
臨済禅師の説かれたところであります。
(龍雲寺ダンマトークより)
横田南嶺