平常心
平常心と書いて、禅門では「びょうじょうしん」と読んでいます。
一般に言われる「平常心」とは、
『広辞苑』によれば、「普段どおりに平静である心」として、
用例に「平常心を保つ」と載っています。
「平常心」を失わないようにとか、「平常心」を無くさないように気をつけるという風に、
今日のスポーツの世界などでも使われています。
しかしながら、禅門において馬祖道一禅師の説かれた「平常心(びょうじょうしん)」は、
そのような意味合いとはかなり異なるものであります。
馬祖禅師の語録には、「平常心」とは
「造作無く是非無く.取捨無く断常無く、凡聖無し」と説明されているのです。
まず「造作無く」ですから、作り事をしないのです。
「平常心(へいじょうしん)」を養おうなどと思ったら、
既に「平常心(びょうじょうしん))ではありません。
あるいは、一般に禅の修行というと、
迷いを捨て去り、悟りを求めるもののように思われていますが、
これでは「取捨」になってしまいます。
そんな気持ちは「平常心」ではないのです。
「凡聖無し」ですから、そもそも迷いだ悟りだのという区分はないのです。
なんの造作もしないありのままの心なのです。
そしてそれがそのまま道であり、仏でもあります。
小川隆先生が、『禅思想史講義』で説かれているように、
「己が心、それこそが仏なのだ」ということなのです。
そして「その事実に気づいてみればいたるところで仏でないものはない。
ここから現実態の生き身の自己のはたらきは
すべてそのまま仏としての本来性の現れにほかならない。」と小川先生がお説きになる通りです。
これは、大乗仏教の華厳の教えが、更に一層具現化されたものだと
私は受け止めています。
華厳の教えに「仏性現起」というのがあります。
一切は仏性の現れだという教えであります。
すべてが仏性の現れですから、こには迷いだ悪だというものは存在しないのであります。
これは、多年にわたって苦しみながら仏を求めてきた者にとっては、目からウロコの落ちるような教えであり、
大きな救いになったでありましょう。ゆるぎない安心を与えたと思われます。
しかしながら、これを鵜呑みにしてしまうと、なにも修行しなくていいことになってしまって、
馬祖の禅は批判をされてしまうことになってゆきました。
臨済禅師は、多年悟りを求めぬいて、この平常心に気づかれました。
そこから、新たに「生き身の自己のはたらき」を、
「一無位の真人」に目覚め「随処に主と作る」のだと説かれたのであります。
(龍雲寺ダンマトークより)
横田南嶺