行業純一
二十二日は、居士林会で提唱。
例年居士林会は、敬老の日に行っていますが、
今年はお彼岸の日曜日に行いました。
学生時代に居士林で熱心に坐っていたというOBの方々の集いであります。
皆それぞれに懐かしい居士林で坐禅し、
僧堂に来て居士林関係者の物故者のご供養をして、
提唱を聞いて、それから皆で昼食を取るという行事であります。
今年は、『臨済録』を提唱しました。
なかでも臨済禅師の開悟の因縁についてお話しました。
臨済禅師は、黄檗(おうばく)禅師のもとで御修行なさっていて、
その修行振りが「行業純一」であったと、説かれています。
岩波文庫『臨済録』において
入矢義高先生は「その修行態度はひたむきな純粋さであった」と訳されています。
今北洪川老師は、僧堂に伝わる書き入れ本に、
「此の四字、臨済の生より死に至までのこと、皆是から出てきたことぞ」と註釈をされています。
臨済禅師のご生涯を貫いたのが、この四文字だということです。
修行は、なんと言ってもこの「ひたむきさ」「純粋さ」にまさるものはありません。
一途に打ち込むこと以外に、修行の道はありません。
この日の居士林会は、
戦後七十年来円覚寺に通って、
朝比奈宗源老師、足立大進老師、そして私の三代の師家について参禅を続けられた老居士が、
今夏お亡くなりになり、そのご供養も兼ねたものとなりました。
老居士もまた、一途にひたむきに参禅に骨折られたご生涯でありましたので、
往時のお姿を偲びつつ臨済録を提唱したのでした。
老居士の奥様とご息女が、老居士の位牌を遺影を抱いて
写真は洪川老師 手沢本(しゅたくぼん)の一部。
このような綿密な書き入れが全篇に施されています。
横田南嶺