共に坐る
花園大学の摂心には、朝の始発で出かけました。
摂心の始まりの午前九時からなので、
学生さんたちと一緒に坐るためです。
私の担当するのは、十時半から七十分の提唱という講義なのですが、
やはり朝から皆と共に坐ることが大切だと思うからです。
先日の諏訪中央病院での対談でも、漢方医の桜井先生が、
死の怖れを克服する道として、死に対して動じることのない人と共にいることだと仰いました。
怖れや不安というのは、言葉によって論理的に説明したりすることが困難です。
そして恐れ不安に対して安心を得られるのもまた言語によって説明するのは困難です。
共にいることによって、安らかになるというようなこともまた、
言葉によって表現しがたいものです。
私なども、もうかれこれ二十年僧堂の師家という勤めをしてきて、
しみじみと思うのは、共にその場にいるということが一番の教育だということです。
禅はよく「不立文字」だと言われます。
文字に表せないのだといいます。
また仏陀の教えも、長い間文字に書かれることはなかったのです。
それは、いろんな理由が挙げられますが、
お釈迦様と共に坐り、共に托鉢して暮らしていた人たちは、
お釈迦様と共にいる喜びに満たされていて、
それを言葉にすることなどできなかったのだと思います。
禅も同じで、単に文字を否定するのではなくて、
共に坐ることに喜びに満たされて、
言葉にならなかったというのが本質ではないかと思っています。
ですから、学生さんたちと、ただ共に坐りたかったのです。
朝の九時から摂心の終わりの午後三時まで、ずっとただただ坐り続けました。
その間に提唱という話もしましたが、一番大事なのは共にすわること、
共に食事をすること、共にその場にいることなのです。
その次に大事なのが、語り合うこと。
摂心の終わったあとに、一時間ほど、参加者の中でも有志の方と質疑応答、懇談の場を設けました。
花園禅塾の学生が多かったのですが、
一般の学生さんも含めて活発な質問が出されました。
こちらも真剣に答えました。
学生さんたちの熱心さに、学ばされました摂心でした。
横田南嶺