何をしても仏心
十五日の日曜日、
久しぶりに大方丈で
『盤珪禅師語録』を提唱。
「平生、不生(ふしょう)の仏心 決定(けつじょう)しておる人は
寝れば仏心で寝
起きれば仏心で起き
行けば仏心で行き
坐すれば仏心で坐し
立てば仏心で立ち
…睡れば仏心で睡り
…一切時中、常住仏心で居て片時も
仏心にあらずという事なし」という
一節を講義していました。
盤珪禅の真骨頂ともいえる箇所であります。
平生何をしても、仏心のはたらきだというのであります。
その少し前の箇所には
「仏心は霊妙なる故に
一切の迷のことを習い覚え熟するなり」と
説かれていて
これは、迷うこともまた仏心のすばらしいはたらきの故だと
いうのであります。
唐代の禅僧 馬祖道一(ばそ どういつ)禅師が、
「平常心是れ道」(びょうじょうしん これどう)と
示されたのは、まさにこのことです。
平常心というと、どんな時にも取り乱さない心を
養うように思われるかもしれませんが
馬祖の説いたのはそうではありません。
ふだんのありのままの心の活動がすべて道だというのです。
なにも造作をしないのであります。
これはすばらしい悟りの世界でありますが、
欠点は、この教えを単に鵜呑みにしてしまって
怠惰になり、堕落してしまうことであります。
そこで、馬祖の禅は無事禅として批判され
盤珪の教えを信奉する人たちを白隠禅師は
きびしく批判されたのでした。
いずれにしても、本来もってうまれた
仏心に目覚めることこそが
肝要なのです。
横田南嶺