遠い道
今日は、夏期講座2日目でした。
第一講目は、横田南嶺老師による「無門関提唱」、
第二講は、慶応義塾大学都倉武之先生「釈宗演と福澤諭吉の見ていたもの」
第三講は、深澤光代先生による「教皇フランシスコが描く平和のビジョン」でした。
以下は、横田南嶺老師による今日の提唱です。
朝比奈宗源老師の言葉に
「塩鮭の塩抜きをするに真水では駄目で、塩を一つまみ入れるという。
菩薩が一分の煩悩を断ぜずにおくというのもこれか」
というものがあります。
まったくこの世の苦しみも悩みも感じなくなったというのでは、人を救うこともできません。
それはそれでまた悟りという穴蔵に落ち込んでしまって、身動きがとれないというのです。
金はすばらしいものですが、それに縛られては実際の暮らしはできません。
悟りというすばらしいものにとらわれてもだめなのであります。
欲望にまみれてしまってもどうにもなりませんし、
かといって完全に欲望が無くなってしまっても、
それでは人を救うことはできないというのであります。
この世のどうにもならない人間の悲しみをしっかりみつめているからこそ、
大慈大悲という暖かいこころが出て来るのでありましょう。
坂村真民先生「遠い道」という詩があります。
それは遠い道である
月までよりも遠い道である
しかしわたしは何年かかっても往くであろう
風がおこる根源のところへ
光が生まれる混沌のところへ
そしてまた幾年かかっても
還ってくるであろう
もろもろのものたちが
愛の火を燃やしあって
生きようとしているところへ
こころを相寄せ合って
暮らしているところへ
生きとし生けるもののかなしみと
よろこびの渦巻くところへ
禅の道を求めて究め尽くしたとしても、そこで終わるのではなく、
またこの現実の苦悩の世界に戻ってくるのです。
唐代の禅僧が、今度生まれ変わってくる時には牛になって、田圃を耕すと言われたのは、そのような心なのです。
釈宗演老師は、「世には遠く俗塵を避けて山に入りひとり自らを高うするものがあるが、
それ等は禅の本旨を得たものとは云はれない。
禅は何処までも血あり涙あって俗世間を救ふという
大慈悲心のあるものでなければならぬ」という言葉もまた同じ精神であり、
これこそが大乗仏教の神髄とも言えるでしょう。