光あまねく
今日は、夏期講座3日目でした。
第一講目は、横田南嶺老師による「無門関提唱」、
第二講は、村松静子先生「自主逝の心 自分の最期は自分が決める」
第三講は、三井記念美術館館長 清水眞澄先生による「円覚寺の開創と美術」でした。
以下は、横田南嶺老師による今日の提唱です。
山頭火の句に
光あまねく茶の木には茶の花さいて
というのがあります。
静かな冬の日射しに包まれて、あの小さな茶の花が楚々として咲いている様子が
よく表現されています。
清らかな感じのする句ですが、山頭火は幼い頃に、
母親が井戸に身を投げて自殺して、
その母が井戸から引き上げられる姿を目にしているのです。山頭火は、
その母の位牌を持って放浪遍歴に旅に出たのでした。
酒を飲まずにはいられず、飲んでは苦しむのです。
そんな苦悩の中から清らかな光を感じるのが、この句であります。
坂村真民先生に
光る
光る
すべては光る
光らないものは
ひとつとしてない
みずから
光らないものは
他から
光を受けて
光る
という詩がございます。
真民先生が小学校の五年生の担任を受け持った時に、
まったく字も読めない生徒がいたそうです。
前任の先生からは、「あの子はどうしようもない子で五年間すっと放っておいていたから、
そのまま放っておいたらいい」と言われたというのです。
しかし真民先生は、この子にもきっとなにかすばらしいところがあるはずだと信じます。
あるとき生徒達を連れて近くの川に行かれました。
するとその子が、川で泳いでいる魚を素手で上手につかんで捕るのです。
それを見た先生は、喜びます。すごいではないかとその子を褒めてあげるのです。
どんな子にも光るものはあると信じているのが真民先生でした。
ですからこの「光る 光る すべては光る」の言葉には実感がこめられています。
また真民先生は、「柔軟心」という詩の中で
何もかも無くしたとき
何もかもありがたく
何もかも光り輝いていた
一途に咲いた花花の
うれしい心を受け取ろう
やさしい心をほめてやろう
と詠っておられます。
何かも無くしたとき、なにかも有り難く何もかも光り輝いていたという一節は、
禅の教えを端的に詠っています。
禅の修行とは、この何もかも無くす修行です。
今まで覚えてきた知識も経験も、すべて無くして無になって坐るのです。
すると何もかもが有り難くなります。
朝の日の光が射してくることも、
鳥のさえずりが聞こえてくることも、
今ここで息をしていることも、
こうして生きていること自体がありがたくなってきます。
そこで目を開いてみれば、何もかも光輝いているのです。
私もその光の中にいるのだと気がつくのであります。