見聞覚知の主
白隠禅師の年譜の六十七歳のところに、
京都島原の遊女大橋の話が載っています。
この大橋という女性は、
もとは江戸の武家の生まれで、和歌や茶道書道を学ぶなど恵まれた環境で育ちました。
ところが、とある事情から父が浪人となってしまい、生活にも困窮するようになってしまいました。
そこで大橋は、まだ弟もいるので、家族を何とかしようと思って、自ら身を売って家族の窮乏を救いました。
覚悟して苦海に身を沈めたものの、
もとは武門の生まれでありながら、
毎日の辛い暮らしに苦しみ悩むことになりました。
どうしてこのような目に遭わねばならぬのかと自らを恨み、
鬱々とした日を過ごしていました。
やがて病の床に臥して、とうとう医師も手の施しようがなくなってしまいました。
そんな或る日のこと、ある客が大橋に言いました。
一つだけ、この苦しみからたすかる道があると言うのです。
どんな方法ですかと尋ねると、その客は言いました。
生きているのは、見聞覚知の活動にほかならない。
見たり聞いたり感じたり思ったりすることです。
その見聞覚知には主がいるはずである。この見聞覚知の主は何者か、
見る者は何者ぞ、聴く者は何者ぞとひたすら問いかけてゆけば、
必ず本来具わっている仏心が現れると教えてくれたのでした。
藁にもすがる思いで、大橋は言われた通り、
病の床に臥しながらも、見る者何者ぞ、聴く者何者ぞと工夫しました。
或る日のこと、ひどい雷が町を襲いました。落雷が相次ぎました。
大橋は特に雷が怖かったので、部屋の中で布団に潜り込んでいました。
しかしこれではいけないと思い、布団の上に端座していました。
そんな折に、大橋の家の庭に雷が大音声と共に落ちました。
大橋は気絶してしまいましたが、意識を回復すると、
見もの聞くものみな今までとがらりと異なっていました。心が開けたのでした。
やがて身請けされ、その夫も亡くなり、再び一素居士という方のところに嫁ぎ、
居士と共に白隠禅師に参禅するようになりました。
見聞覚知の主は何者かと工夫することによって、
たとえどんな苦海に身を沈めたとしても、
仏心は汚れひとつ着かないことに目覚めることができたのです。
{横田南嶺老師 半制大攝心提唱}