一心の向けよう
仏教では、仏もわれわれも同じ心を持っていると説かれています。
同じ心でありながら、仏にもなり、迷い苦しむお互いにもなるのです。
その心をどちらに向けるかによって、
仏になるか、迷える者になるか、分かれてきます。
一心の向けようによって、仏にもなります。
お互い普段の心は、常に外に向かってはたらいています。
目で物を見ては、好きだ嫌いだと是非善悪の色づけをしています。
耳で音や声を聞いても、心地好いだ不愉快だと是非善悪の色づけをしています。
舌で味わっても、体で触れても同じことです。
そのように常に心は外の世界に向かってはたらいて迷いを引き起こしいるのです。
その心を内に向けてみます。
目で物を見る時には、見える物を追いかけるのではなくて、
こうして見ている者は何者であるかと自らに問いかけます。
耳で音を聞いた時には、その音についてあれこれ思うのではなく、
この音を聞いている者は何者であるかと自らに問うのです。
見たり聞いたりすることには、必ずその主がいます。
その主は何かと自らに問うことです。すると心が内に向かいます。
臨済禅師が、『臨済録』の中で、繰り返し外に向かって求めるなと説いています。
外に向かって求める者は愚かであると言うのです。
仏を求めようと思うならば、今この目の前で法を聴いている者、それだと示されています。
この臨済禅師の説かれた教えを、実際に自ら工夫してみるのです。
こうして話を聴いている時に、話の内容を穿鑿するのではなく、
これを聴いている者は何者ぞと自分自身に問い詰めてゆくのであります。
これが本来の心、即ち仏心に目覚めることのできる方法です。
{横田南嶺老師 半制大攝心提唱}