阿闍梨様のお寺慈眼寺へ
連休の最中に、塩沼亮潤大阿闍梨との対談本を作成するべく、
先日の円覚寺での対談に続いて、宮城県は秋保にある阿闍梨様のお寺慈眼寺にまいりました。
仙台の駅から、小一時間ほどで着くところにあるのですが、
折から紅葉の季節で、それに連休でもあって、一時間少々でお寺に着きました。
本日は、阿闍梨様が月に二回、お護摩を焚かれる日で、大勢の方々が集まっておられました。
慈眼寺は、大阿闍梨が、千日回峰行を終えたあと、
ご自身のふるさとに土地を求められ、本堂などの伽藍を自ら設計され、お庭もすべて自らお作りになられたお寺であります。
広い境内に、本堂も立派で、お庭も自然ですばらしい境致であります。
お護摩は、午後一時から一時間少々行われました。
禅宗では、あまり祈祷ということをいたしませんので、
他宗の祈祷にお参りさせていただくということは貴重なことです。
それぞれの方が願い事を書かれた護摩木が供えられていて、たくさん焚かれるのです。
はじめは、あんなにたくさんの願い事を、どのようにして聞き届けられるのかと思っていました。
家内安全から、病気の平癒、合格祈願までさまざまでしょう。すべてを聞くことは無理だと思ったのです。
合格祈願ですと、一人の願いを聞き入れることは、誰かを落とさなければなりません。
お護摩の修法は、太鼓が鳴らされ、法螺貝が吹かれて、勇壮な雰囲気の中で行われます。
印を組んで、作法に則り、護摩壇に火がともされ、阿闍梨様は膨大な護摩木を、手で鷲づかみにして、火中に投じられます。
あまりにも数が多すぎるので、手で持てる限りの護摩木を持って
そのまま火中にくべられますので、一本一本の願いも名前も見ることはできません。
そして、次々と火中に投じられ、どんどん焚かれます。
たくさんの護摩木はやがて大きな炎となってゆきます。
そんな情景を拝みながら、様々な個別の願い事が、
この火の中に投じられることによって、浄化されて、みほとけの大いなるみこころと一つになってゆくのだと感じました。
阿闍梨様は、多くの人たちの願い事を、皆一度我が身に引き受けられて、
みほとけのみこころ一つに浄化なさっているのだと気がつくことができました。
すると、こちらも有り難い炎に包まれて、身も心も浄化されて、
大いなるみほとけのみこころと一つに溶け合ってゆく思いに浸ることができました。
護摩修法というのは、こうして行われるのだと深く感銘を受けました。
阿闍梨様の清澄な祈祷のお声が清々しく、大勢の方々がお集まりになるのがよく分かりました。
海外からお参りに見えた方もいらっしゃるようでした。
阿闍梨様は、鎌倉から私が参列していることを皆様にご紹介くださって、
大阿闍梨には及びもつかぬ凡僧は恥ずかしい思いでした。
横田南嶺