僧堂提唱
途中と家舎
『臨済録』に「一人有り、劫を論じて途中に在って家舎を離れず。
一人有り、家舎を離れて途中に在らず。」という一節があります。
岩波文庫の『臨済録』の訳には、
「一人は永劫に道中を歩みつつ、しかも本来の場所に身を置いている。
一人は永劫に本来の場所を離れて、しかも道中を歩んでもいない。」とあります。
どこかに到達しようという目標点を定めると、そこへ到る道からそれてしまうということが起こります。
すなわち、迷うことが生じます。
どこへゆこうとも、そこに落ち着いていようと思っていれば、迷うことはありません。
「行き先に我が家ありけりかたつむり」という句の通りです。
どこでも、到るところ、そこが我が家なのです。
どこかに本当の自分があると思って、外に求めようとするので、
自分さがしということになってしまいます。それは迷いです。
どこでも、何をしていても、それが本当の自分だと思っていれば、探すことも迷うこともありません。
しかしながら、目標だの途中だの、本来の自分だの現実の自分だのと、二つにわけて考えること自体が迷いなのです。
ただ、今のこと、与えられていることを、生き生きと精一杯はたらく、
いのちの姿があるのみです。