塩沼大阿闍梨来山
今年の夏期講座の講師をおつとめいただいた時のご縁で、
塩沼亮潤大阿闍梨と対談本を出すことになりました。
夏に話が決まったのですが、お忙しい阿闍梨様と、こちらの日程の調整が困難で、
ようやく昨日三十一日に円覚寺にお越しいただいて、第一回の対談を行いました。
塩沼阿闍梨は、歴史上二人しか満行していないという大峰回峰行を成し遂げられた方であります。
修行といってもさまざまで、我々の禅の修行などは、平常心是れ道といって、
日常の当たり前の暮らしが仏道であるという教えです。
ですから、毎日畑を耕して野菜を作り、掃除して、炊事してあとは静かに坐るというように、
特別のことをするわけではありません。
それ対して、回峰行などは、日常の掃除や炊事に勤行などに加えて、激しい行を行うものであります。
どうして激しい修行をするのかという問いに、
阿闍梨様は、
お坊さんは人生の教師とならなければならないのであって、
ときには自分よりも年配の方の悩みも聴かなければならないこともあり、
そのために普通であれば一生涯かけて分かるようなことを、
わずか数年で厳しい負荷をかけて体得するためなのだと仰せになりました。
人生の教師といっても、決して上から教えるのではなく、
下から支えてあげるようにならなければならないとも仰せになっていました。
ですから、行は厳しくしなければならないと教えてくださいました。
私などは、普段修行道場にいますものの、多くはお寺の跡取りの子弟さんを預かっていますので、
「人生の教師」になろうなどという志を持って修行している者など、残念ながらわずかのように思います。
高い目標を掲げるからこそ、厳しい行に耐えられるのだと思いました。
阿闍梨様は、私よりも四歳ほど年下でありますが、
我々禅宗にはとてもまねのできない行をされたかたですので、対談でもなるだけ聞き役にまわるようにしていました。
おかげで貴重なお話をたくさんうかがうことができました。
大行をなされた阿闍梨様ですが、接しているとなにごとも謙虚な姿勢が徹しておられて、感服しました。
仏教について何も知らない人から、
仏教とは何か一言で教えてほしいと問われたら、なんと答えるかという問いに、
阿闍梨様は、
相手に対する思いやりの心を養い、人生をよりよく生きる為の教えですと、
十一月の連休中には、阿闍梨様のお寺である宮城県の秋保にある慈眼寺におうかがいして対談の続きを行う予定です。
横田南嶺