信について
禅における信とは、どのようなものでしょうか。
昨年臨済宗の和尚様方の研修会で、信について話をしたことがありました。
禅の修行においても、大信根、大疑団、大憤志の三つが大事だと言われています。
信は、修行の土台であります。
しかし、これは単に我々とはかけ離れたところにある神仏を信じるというものではありません。
「鰯の頭も信心から」という信ではないのです。
自らに仏と同じ心が具わっていて、仏道を行ずれば必ず達成できると信じるのだと祖師方は説かれています。
『臨済録』には、この「信」という言葉は二十も使われているのです。
『臨済録』に繰り返し説かれるのは自信、自ら信じるのであります。
「学道の人は、且く自ら信ぜんことを要す」と『臨済録』には説かれています。
私なども、そういう言葉に触れて、自分なりに信をもって修行してきたつもりでした。
幸いにも、長い間修行道場に身を置かせてもらってきました。
しかし、ある時にふと気がついたことがありました。
そのようにして、自らを信じ、あきらめることなく修行してきたんだと自分で思っていましたが、
修行してこられたのは、実は師の方が、この私を信じて見守ってくださっていたからではないかと思うようになりました。
修行していると、禅門の師というは、厳しく苛烈に指導なされます。
こちらは、それに耐えて修行してきたつもりでしたが、
師の方は、実はきっとできると信じて見ていてくださっていたのだと気がついたのです。
こちらが自らを信じてがんばっていたつもりが、実はおおきな「信」の中にいたのだと気づきました。
『法華経』に有名な長者窮児の譬がございます。
長者の子供が、迷ってしまい、貧しい暮らしをしていたのが、
長者の家の庭掃除からはじめて、
だんだんと長者のおそばにお仕えして、
最後に自分は長者のこどもであったと気がつくという譬話です。
長者は仏を指します。窮児は私たちを表します。
長らく私は、窮児の立場からしか、この話をみていなかったのですが、
長者の立場からみれば、長者はずっとこれはわが子であり、
必ずわが子であることに気づいてくれると信じて見守ってくれていたのでした。
まさに長者すなわち仏の「信」の中にあって、窮児は努力してきたのでした。
馬祖禅師の語録にも、お互いは法性の中にあって、著衣喫飯しているのだという表現があります。
悟りの中で、毎日暮らしているのだというのです。その事に気がつけば、毎日の営みのすべてが仏の活動であるというのです。
禅における「信」とは、こちらが自らを信じて努力することから始まるのですが、
大いなる「信」の中にあって、一度たりとも、その中から出ることもなく、
また常にその中にあって、何も失う事も得る事もなく、起き伏ししてきただけなのだと、
納得して、確信することができ、からだで実感することができることだと思うようになりました。
そうしてみると、『臨済録』で繰り返し、自らを信じ他に求めることはないということがよく身にしみるのであります。
そこで私たちも、どんな人に接しても、この人もあの人も、みな仏の心をもって、かならず気がついてくれるのだと信じて、
お説法してゆくことが大事ではないかと、和尚様方にお話をしたのでした。
(湯島麟祥院において、小川隆先生による『臨済録』講義の前座の話)
横田南嶺