大悲千手眼(だいひせんじゅげん)
十月二十日より、雪安居を開講します。
引き続いて『臨済録』を拝読します。
本日は、大悲千手眼の問答です。
麻谷(まよく)が臨済禅師に質問しました。
千手千眼の観世音菩薩は、どれが正眼でしょうか。
すると臨済禅師が、逆に麻谷に同じことを問い返しました。
千手千眼の観世音菩薩は、どれが正眼かと。
麻谷は、臨済禅師の衣の袖を引っ張って
臨済禅師を説法の台から引きずり下ろして
自分が、台の上に坐りました。
臨済禅師は、下座から「ご機嫌いかが」と挨拶しました。
麻谷は、何か言おうとしました。
すると臨済禅師は、麻谷を台から、引きずり下ろして自分が再び説法の台に坐りました。
麻谷はさっさと出て行きました。臨済禅師も座を降りて出て行かれました。
これだけの問答です。
一見して、なにのことやらさっぱりわかりません。
大悲千手眼、どれが正眼か、誰もその問いに答えているようにはみえません。
訳の分からぬことを禅問答と言われる代表のような問答です。
『碧巌録』に「通身是れ手眼」という言葉が出てきます。
身体全身まるごとが手であり眼であるという意味です。
麻谷が臨済禅師から質問されて、説法の台に坐ったのは、
身体全身まるごとが正眼だと示したものだと見ることもできましょう。
しかし、お互いに引きずり下ろしたり、台に坐ったりし合っているのは、どういうことでしょうか。
『碧巌録』の通身是れ手眼の公案を雪竇(せっちょう)禅師は、
頌で帝網珠(たいもうじゅ)のたとえを用いられています。
帝釈天に素晴らしい宝珠があって、それは網の目に一つずつついていて、
それぞれ光り耀いている。一つの光が、他の珠に映じて、また光を発するのです。
どの珠が主だということは、ありません。それぞれがそれぞれあい映じ合うのです。
帝網珠のはたらきこそが、大悲のはたらきであります。
ただ一方が一方を救うというようなものではありません。
救う側と救われる側があるようでは、真の救いではないのです。
共に主ともなり、客ともなるのです。無限にお互いあい映じ合う世界であります。
慈悲というと、かわいそうだから何とかしてあげようと、一方から一方へと行われるように思いますが、
それでは、してあげたんだという自我意識が残ります。
『金剛経』にも説かれていますように、我も人もない一体となったところがなければならないのです。
お互いがあい関わり合い、お互いがお互いに影響を及ぼし合っている姿、
これこそを本地の風光というのであります。
こういう僧堂でも、古参の者が、新参の者を一方的に指導するという訳ではありません。
新参の者のおかげで、活気が出てきますし、お互いにより一層良い修行もできるのであります。
お互いさまなのです。
もっといえば、何も師家がいて、雲水を一方的に指導しているというものでもないのであります。
雲水がいてこそ、僧堂が成り立ち、師家も必要とされています。
また時には、雲水達から学ばされるということも多々ございます。
お互いがお互いに研鑽しあっているのです。そんな場が僧堂であります。
十月は諸行事も多く、開山忌や舍利講式など行事が続いて、
その合間にも台風の後片付けなどもあって、バタバタしていましたが、
どうにかこうして無事に雪安居の結制を迎えられるのは、有り難いことであります。
帝網珠が、お互いが光を放って照らし合うように、
お互いがよい影響を与えられるように精進してまいりたいと思います。
横田南嶺
(令和元年10月20日 入制大摂心提唱より)