ただ坐る
午前中が一照さんの坐禅でした。
息を調える、調息について二時間学びました。
呼吸を調えるためにいろんなワークを行いました。
二時間でも足らないくらいでありました。
お昼ご飯をはさんで、午後からは私のイス坐禅でありました。
私は手をほぐすことからはじめてゆきました。
1時間半で終えました。
終わったあとに二人で対談と参加者の方からの様々な質問に答えました。
これが二時間近く続きました。
多くの方からいろんな質問をいただいたのでした。
はじめに対談をかねて私から一照さんに質問をさせてもらいました。
一照さんの坐禅を教わっていると、呼吸だけでもたくさんのワークがありますし、その他にも身体を調えるためにはたくさんの方法をお持ちであることが分かります。
そのすべてを行っていると一日かかるのではないかと思われるほどであります。
そこで、質問をしたのは、曹洞宗でいう「只管打坐」とは、本来、何か特別なことをするのではなく、ただ坐ることを意味していると思いますが、坐禅のためにさまざまな身体の稽古をする必要があるのか、たくさんのワークをしないと「只管打坐」にはならないのかということでした。
それと「只管打坐」をずっとやっている人は、一照さんが行うようなワークをしなくてもすべてそのようなことは具わっているのでしょうかということを尋ねました。
昔のままの暮らしをしていて、身体がすでに調っている人であれば、特別な準備をしなくても、自然に坐ることができるのかもしれません。
しかし、現代の私たちが、ただ坐っているだけでそこに至ることができるかというと、なかなか難しい問題があります。
イス坐禅でも、ただイスに坐ればそれでよいかというと、それは難しいところがあります。
姿勢に問題があっても、自分ではこれが只管打坐だと思い込んでいる場合もあります。
そこでまず一照さんは、坐禅の中に含まれている身体の働きを取り出して、一つひとつ稽古することが必要だと仰いました。
足の裏の感覚や股関節の働きなど、それぞれに深い世界があるのです。
ただし、大事なことは、そのように稽古したことを坐禅の時に意識して使うのではないということでした。
むしろ「使わないための稽古」と仰っていました。
稽古によって身体の中に何かが育ち、目覚めてくるというのです。
それが十分に身につけば、意識して使おうとしなくても自然に現れてくるはずなのです。
これは大乗仏教の修行にも通じる問題と仰います。
「あなたはそのままで仏である、すでに完全である」といいながら、やはり修行しないといけないと説いています。
一見すると矛盾しています。
一照さんは、本来仏であるからこそ修行するというのが大乗仏教の大切な考え方だと仰います。
すでに完全でありながら、その自覚を深めていくのです。
そういう意味で修行には終わりがないのです。
全てのワークをしなければならないというわけでは決してないということが分かりました。
それからもう一つ、現代人の身体の問題についてうかがいました。
スマートフォンの普及によって、多くの人がスマートフォンをのぞき込もうとして首を前に倒し、背中を丸めた姿勢で暮らすようになりました。
巻き肩やストレートネックが当たり前になりつつあります。
そういう人に、無理に背筋を伸ばしなさいと言っても、痛みが生じるだけだという場合もあります。
こういうときにはどのように指導したらよいかと尋ねました。
一照さんは、大切なことは、まず自分の身体に何が起きているのかに気づくことだと説いてくださいました。
知らないうちに機械に身体を合わせ、身体が発している悲鳴にも気づかなくなっている、そのことに気づき、一度立ち止まって、身体の声を聞くことだというのです。
そして、少しずつ方向を変えていくのです。
これも一つの目覚めではないかと説いてくださいました。
煩悩を否定するのではなく、煩悩を手がかりとして目覚めに向かうのです。
いわば煩悩を転じて悟りとする、現代的な修行のあり方だと仰っていました。
その際、無理に姿勢を矯正するのではなく、本人が今までよりも楽で心地よいと感じられる経験をすることが大切です。
そのような経験をした人が少しずつ増えていけば、周囲にも自然に影響が広がっていくと説かれていました。
一照さんはこれを「静かな革命」と表現されました。
そこでその日の朝にあったことを話してくださいました。
前の晩から神宮寺の近くに泊まられていたそうです。
神宮寺は浅間温泉の町の中にあります。
お寺のまわりに銭湯がいくつかあるのです。
一照さんが朝早く銭湯に行かれたそうです。
一照さんが身体を伸ばして気持ちよく過ごしていると、初対面の方から声をかけられたそうです。
一照さんが頭を剃っている姿勢をみて感動されたというのです。
そして身体のことなどを話し合っていたのでした。
こちらから何かを教えようとしたわけではなく、自分が心地よく過ごしている姿が、相手の関心を引いたのだろうとお話になっていました。
人を無理に変えようとするのではなく、自分自身がよい状態でくつろいでいる。
その姿が自然に周囲に伝わっていくというのです。
一照さんは、お釈迦様の布教も、もともとはそういうものだったのではないかと説かれました。
悟りを開かれたお釈迦様が、かつて苦行を共にした五人の修行者を訪ねた時、彼らはお釈迦様を相手にしないつもりでいました。
しかし、その姿を目にすると、思わず敬意を表したと伝えられています。
言葉による説法が始まる前に、すでにその存在そのものが相手に働きかけていたのです。
そこで只管打坐という坐禅もまた、何かを意図的に身につけて人に示すことではありません。
いろんな稽古を重ねながら、最後にはその稽古さえ忘れ、自然に身についているものが現れてくるのです。
そこに坐禅の深さがあり、修行の尽きることのない面白さがあるのだと思います。
ただ坐る。
その何でもないようなところに、深い世界があるのです。
その探求には終わりがないのです。
その日は夕方までかかりましたので、私も松本に泊まりました。
翌朝早く起きて神宮寺の近くにある御射(みしゃ)神社におまいりしました。
すると昨日坐禅会に参加された方と出会って挨拶させてもらいました。
朝の空気は澄んでいていいものです。
そのあと神宮寺にある薬師堂で一人坐禅をしていました。
六時になると寺の鐘が鳴りました。
坐禅をしているところに聞こえてくる鐘の音はいいものです。
やはり「ただ坐る」、これに尽きるものはないとしみじみ思ったのでした。
横田南嶺