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臨済宗大本山 円覚寺

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2026.09.15
今日の言葉

禅の両横綱

先日は湯島の麟祥院で勉強会でありました。

はじめに小川隆先生が大慧禅師の『宗門武庫』についてご講義があり、そのあと私が『臨済録』について講義をしています。

この会は和尚様方限定の講座なので、七月と八月はお盆でお休みとしています。

六月以来ですので、久しぶりの開催であります。

小川先生が今回講義をされたのは、法雲寺に住した恵杲禅師という方の話でした。

概略は、その恵杲禅師が若き日に、諸方の禅師の門下を行脚していて、金陵円通寺の円璣禅師の下である公案を与えらたという話から始まります。

恵杲禅師は、与えられた問答について見事に答えました。

円璣禅師は、それを高く評価して、恵杲禅師を抜擢して皆の前で説法させました。

ところが、説法の折に言葉に詰まり、皆にも大笑いされてしまいます。

恵杲禅師も恥じ入るばかりでした。

次の日に皆の為にお茶の会があり、そこでお茶をいただくのですが、恵杲禅師は、うっかり茶器をひっくり返してしまいます。

粗相をしてしまいました。

そのとき茶匙が床に落ちて音を立てて跳ねるのを聞いてハッと悟りました。

それからは、恵杲禅師に立ち向かえる者がないほどのはたらきを示したという話でした。

そのあとさらに話は続きますが、先日はまずここまでを学んだのでした。

恵杲禅師が円璣禅師から与えられた公案というのは、趙州和尚と投子和尚の問答であります。

趙州和尚が投子和尚を訪ねた話です。

趙州和尚の方が訪ねていったので、投子和尚の方が年上のように思いますが、趙州和尚は、西暦七七八年のお生まれで、投子和尚は八一九年のお生まれであります。

趙州和尚が四十一歳の年上なのです。

ただ趙州和尚という方は並外れたお方で、何せ十七歳か十八歳の頃から南泉禅師に師事して修行をして五十七歳頃までお仕えしていました。

その後六十歳を過ぎて再び行脚して、八十歳で観音院に住します。

そして百二十歳まで生きられた方であります。

円覚寺の先代の管長は、唐代の禅僧を大相撲の番付表で譬えると、横綱はなんといっても趙州和尚だとよく言っていました。

そして趙州和尚を東の正横綱とすれば、西の横綱は投子和尚だとも言っておられました。

投子和尚も八一九年にお生まれで、九一四年にお亡くなりになっていますので、九六歳という長寿であります。

その二人がいつ頃のことなのか、出会っているのです。

『景徳伝灯録』にその問答がございます。

その内容をおよそ意訳してみます。

ある日、趙州和尚が、投子和尚のいる桐城県にやって来ました。

そのとき投子和尚も山を出ており、途中で二人は出会いましたが、まだ互いに相手を知りませんでした。

趙州和尚はひそかに土地の人に尋ねて、その人物が投子和尚であることを知ります。

そこで引き返して尋ねました。

「もしや、あなたが投子山の和尚ではありませんか」

投子和尚は言いました。

「茶や塩を買う銭を、一文恵んでくだされ」と。

これが不思議な答え方であります。

茶塩銭というのですが、お茶や塩を買うお金ということです。

生活必需品をまかなうためのものです。

趙州和尚は先に投子和尚の庵へ行って坐って待っていました。

しばらくして投子和尚が、油の入った瓶を一つ提げて庵に帰ってきました。

油を買いに行っていたのか、どこかでもらったのかしたのでしょう。

趙州和尚が言いました。

「かねがね投子和尚のお噂は聞いておりましたが、こうして来てみれば、ただの油売りの爺さんではありませんか」と。

問答を仕掛けます。

それに対して投子和尚が言いました。

「お前さんには油売りの爺さんしか見えていない。投子というものが分かっておらぬ」と。

そこで趙州和尚が尋ねました。

「では、投子とは何ですか」と。

投子和尚は言いました。
「油、油!」と。

ここのところを小川先生は、「あぶら~、あぶら~、あぶらはいらんかね~」と油売りになって表現されていました。

投子和尚は、油売りの爺さんと言われて、油売りの爺さんに成り切ったのでした。

趙州和尚が尋ねました。
「死中に活を得た時には、どうでしょうか」

投子和尚が答えました。

「夜道を行くことは許さぬ。夜が明けた時には必ず目的地に着いていなければならない」と。

原文は「夜行を許さず、明に投じては須らく到るべし」です。

小川先生は「夜間の通行は禁止だが、夜明けには目的地に到着しなければならない」と訳されました。

趙州和尚が言いました。

「こちらがいっぱし悪賢いつもりでいたら、向うがさらに一枚うわてだった」と。

原文では「我れ早に侯白なるに、伊は更に侯黒なり」です。

これには故事があるのですが、今は小川先生の訳にとどめておきます。

小川先生は「こちらが死に切った上で活き返るという境地を示したのに対し、投子はさらに、死んだまま活きるという境地を示してきた」と解説されています。

小川先生が、唐の長安の都では町全体が大きな城壁で囲まれていて、更にその中で東西南北の道で四角く区切られたブロックがあり、それを「坊」というのですが、坊も塀で囲われて門があって、夜の決まった時間になると坊の門が閉められて、夜間外出が禁止されていたと説明してくださいました。

夜行を許さないとは、夜間は歩いてはいけないということです。

しかし、夜明けには着いていなくてはいけないというのです。

夜明けには目的地に着いていないとならないのです。

夜通し歩いて目的地に着くのではなくて、夜間は通行禁止、でも夜明けにはそこに着いていなければならない、という答えなのです。

この問答、はずかしながら、私は夜が明けてから出かけなさいという意味だと思っていました。

しかし考えてみれば、「到るべし」ですから、「到る」というのは、目的地に着くことであります。

どうしてそのような勘違いをしていたのか、寺に帰って調べてみました。

朝比奈宗源老師が『碧巌録提唱』で、

「夜道はするな、夜が明けて明るくなってからでかけよと、こういうことです。」と説かれています。

「昔は今の様に街灯があるわけじゃなし、夜道は暗い。夜道はとかく物騒であるから、夜が明けたら行けと、こういうのです。」と解説されています。

山田無文老師の『碧巌録全提唱』でも、更に達意的に「もう遅いから、今夜は泊まらっしゃい、夜が明けてからお帰りなさい」と解釈されています。

このように老師方が説かれているので、夜道は危ないので夜が明けてからでかけなさいだと思っていたのでした。

小川先生は、死中に活を得る時を問われたのですから、死んでからもう一回生き返るというのはどういうことかと聞かれたのに対して、死んだ後生き返るのではなくて、死んだまま生きていることを答えていると仰いました。

夜間、通行しないのに夜明けには目的地に着いているというのですから、死んだままなのに生きて働いている、死んだままの状態で生きた働きを発揮しているという境地を示しているのだと解説してくださっていました。

そこで至道無難禅師の

生きながら死人となりて なりはてて 思いのままに するわざぞよき

という和歌を示してくださいました。

私も長らく勘違いをしていた問答であります。

趙州和尚と投子和尚という唐代を代表する禅の両横綱の取り組みでありますので、私如きの及ぶものではないということだけが思い知らされます。

趙州和尚や投子和尚のような年齢に近づけば少しは分かってくるかもしれません。

もっともボヤっと生きていては駄目なので、一層の精進をしなければと思ったのでした。

 
横田南嶺

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