自己を変えていく力
合計二十七回の礼拝行を通して、自己を反省し、戒の条文を読み上げてよく生きる習慣を身につけていくものであります。
この布薩の会では礼拝を丁寧に行っていることが特徴であります。
礼拝は、大いなるものへ全身をあげて崇拝する行為ですが、身体的にもとても優れたものであります。
股関節の引き込み、足の折り曲げ、五体投地によって背骨が伸びる、立ち上がることによって垂直の軸ができるなど、身体をよく調えてくれるものです。
とくに両膝と両肘を地面につけて、両手の手の平を耳の高さまで持ち上げるときには、背中がとても伸びるのです。
頭蓋骨から仙骨までのゆるやかなノビを感じることは、坐禅でもとても大切なことであります。
これが礼拝の時によく実感できます。
いただいたアンケートの中にも
「礼拝で両掌を挙げたあと両掌を下に戻して裏返し、背中を伸ばす動作がありますが、その時に長く坐禅を組んだような空っぽの状態になりました。周りと融け込んだ状態です。」という感想がございました。
まさに私が目指しているところを体感してくださっていて有り難く思いました。
それから「布薩を通して、よく生きるための礎、あらゆるものごとの関係性を調える根源的な何か、に触れられる感覚がある」というお言葉もいただきました。
これはまさに布薩の本質を述べてくださっています。
よく生きるための礎、ものごとの関係性を調えるということを布薩で実践しているのであります。
布薩は、はじめに懺悔の礼拝行から始まります。
仏名を唱えながら礼拝を繰り返し、そして懺悔文を唱えては礼拝を繰り返します。
我昔より造るところの諸々のあやまちは
皆、はてしなきむさぼりいかりおろかさによる
身と口とこころより生ずるところのもの
すべて我今みな懺悔したてまつる
という懺悔文を唱えています。
私たちは、遠い昔から、むさぼり、いかり、おろかさという三つの煩悩に振りまわされてきています。
まずこのことを自覚します。
ではむさぼり、いかり、おろかさとはどのようにして起こるのでしょうか。
私たちの存在を仏教では五蘊であるととらえています。
五つの構成要素の集積であるというのです。
五蘊は色受想行識です。
色は物質一般、あるいは身体です。
受は感受作用のことです。
想は心に浮かぶ表象作用のことです。
行は意志、あるいは衝動的欲求に当たるべき心作用のこと、意志のはたらきです。
識は認識作用。識別作用、区別して知ることです。
身体、感受、表象、意志を形成するはたらき、認識作用の五つです。
感受とは感じることです。
身体には目や耳や鼻や舌や皮膚といった感覚器官が具わっています。
その感覚器官が外の世界に触れて感じるのです。
その感受には苦・楽・不苦不楽の三種があります。
心地よいと「うれしい」という思いを生んで、「もっと欲しい」という意志を生み出します。
これがむさぼりです。
不快だと「嫌だ」という思いを生んで、「なくしたい」とか「避けたい」という意志を生みだします。
これがいかりです。
快でも不快でもないことには、はっきり気づくこともなく知ろうともせず、ぼんやりするのがおろかさです。
どうでもいいことには関わろうとしない、知ろうともしないのは、ものごとを正しくみる働きを阻害するおろかさなのです。
何かに触れると快・不快を感じて、もっと欲しいとか、避けたいという反応が起こるのです。
苦・楽・不苦不楽は、身体や心に起こる感受作用であり、むさぼり、いかり、おろかさはその感受に対して心が起こす執着的な反応であると言えます。
むさぼり、いかり、おろかさとなってしまうには、五蘊の行蘊が深く関わっています。
行はまさに形成する力であります。
坐禅中に足が痛くなります。
痛いと感じるのは、感受である受蘊です。
そして、「これは足の痛みだ」と捉えるのが表象作用である想蘊です。
そこから「嫌だ」「やめたい」「足を崩したい」と反応するのが意志作用であり、行蘊です。
受は「感じる」働きであり、想はそれが何であるかを捉える働きであり、行はそれに対して「避けたい」とか「もっと欲しい」と心が反応するはたらきです。
修行で大事なことは、受から想そして行へと変わる様子にまず気がつくことです。
嫌だと思っている、うれしいと思っていると気がつくことがまず大事です。
そこで変えることができるのが次の行蘊であります。
足が痛い、痛いと感じているだけだと知ることで、いかりへと転化しないようにすることができます。
いやだなという思いに気がついて、これをいかりにしないように受け入れることが可能なのです。
夏の坐禅では蚊に刺されることが多いのです。
長年蚊に刺されていると、心の修練が出来てきます。
蚊が刺すと、まずチクッと感じます。
そこで蚊に刺されていると思います。
嫌だなという思いが出てきます。
そのあと普通ならば蚊を追い払ったりしようとしますが、坐禅中はそれができませんので、受け入れるのです。
蚊に血を施してあげようという意志に変えるのです。
そうするとそれによって嫌だなという思いも変わってきます。
嫌でなくなるのです。
足が痛い、嫌だなと思います。
足を崩したいと思ったり、ときにはなんでこんな痛い思いをしないといけないのかといういかりにもなります。
そこで行蘊を変えるのです。
私はよく「足が痛くて死ぬことはありません」と冗談を込めて申し上げることがありますが、なにこれくらいはたいしたことはない、やがて終わるのだと思えば耐えられるようになります。
いかりにはならないようになるのです。
感受が想念を通して行蘊へと移るところでよく気がついて変えるようにすることができるのです。
私たちはふだん無意識に心地よいと感じるとうれしくなってもっと欲しいというむさぼりを起こします。
不快に感じると、嫌だなと思い、いかりを生み出してしまいます。
どうでもよいことには無関心になり、おろかさを生みます。
そこでまず不快だと感じていることに気づき、深く観察していかりを起こさないようにすることができるのです。
ここちよいと感じている、うれしいと思っていることに気づいて、それを味わいながらも執着しないようにすればむさぼりを起こすことがなくなるのです。
礼拝して懺悔文を唱えて自己を省みて、そのあとの戒の条文を読んで、自己をよい方向へと変化させていくのです。
仏のみこころを忘れ、貪りの心にふけらないように、不都合なことをよく耐え忍び怒りを露わにしないように、すべては変化する理を知り心を正しく調えるように変えていくのです。
この自己を変えていく力も行蘊という形成力なのであります。
横田南嶺