一期一会 – 松原泰道先生を思う –
毎年上京してはお墓参りをさせてもらっています。
今年もお墓にお参りさせていただきました。
三田の龍源寺にお参りしてきたのでした。
都内は暑いのですが、幸い、お墓のあるところは大木の木陰となっていましたので、ゆっくりとお経をあげることができました。
墓前にぬかずいていると、しみじみと松原先生のことを思い起こします。
初めて龍源寺に来て松原泰道先生にお目にかかったのは、まだ中学生の頃でした。
NHKラジオ「宗教の時間」で松原先生が、毎月一回、一年間にわたって法句経の講義をなされました。
それを十二回拝聴して感動して、松原先生に手紙を書いて、上京する折に合わせてお目にかかることができたのでした。
見ず知らずの中学生に丁寧に返信をくださったのが実に有り難く思います。
まだ東京のことも何も分からなかったのですが、古川橋のバス停で降りて、龍源寺を訪ねたのでした。
その後関東の大学に入ることになって、保証人にもなっていただきました。
松原先生との出会いこそが、今日の私の原点なのであります。
もう四十数年前のことになりますが、墓前にぬかずくと、その頃のことを思い起こしました。
お寺の方はお出かけでしたので、お留守番の方にお供えをお預けして下山しました。
帰り際に龍源寺様からお土産をいただいていましたので、寺に帰って開けてみました。
松原先生の「花」という揮毫の入った絵皿でありました。
有り難いお品をいただいたと感激したのでした。
私が松原先生にお目にかかった頃に出版された本が『一期一会 禅のこころに学ぶ』という題の本でありました。
総合労働研究所というところから出された本で、昭和五十五年の出版であります。
私がお目にかかった頃は松原先生も七十三歳でいらっしゃいました。
御元気な頃でありました。
午前中早くにお墓参りを済ませて円覚寺に戻りました。
寺に帰って『一期一会 禅のこころに学ぶ』を書架からとり出して読んでいました。
一期一会という言葉について、松原先生は次のように解説されています。
「「一期一会」は、井伊直弼(一八六〇年没)の著書「茶湯一会集」にはじめて見る熟語である。この書は、彼が石州流茶人としての茶の湯に対する造詣の深さをよく物語っている。
そもそも茶の交会は、一期一会といいて、たとえば、幾たびもおなじ主客と交会するも、今日の会に再びかえらざることを思えば、実にわれ一世一度の会なりと。
つまり、「茶の湯の心得は、一期一会」に帰着すると直弼は言い切る。
それ以来「一期一会」のことばは、茶人の間だけではなく広く世間の人びとにも知られるようになる。
直弼は名門彦根城主の井伊家に生まれるが、妾腹の出であったため一五年もの長い間部屋住み生活をするという不遇時代を経たので、自ら“埋木舎”と名づけた。
しかし“埋木”の生活が人生苦の開眼となり、茶の湯の世界でも一家をなしたと思われる。
井伊直弼は、幕府の重臣大老というよりも、石州流の茶人「宗観」として知られている。
また、直弼は長い埋木の生活の後に彦根の藩主となったから、一般庶民の心情や生活がよく理解できたので藩の政治でも成果を挙げている。
しかし、彼は当時やかましかった外交問題についてはほとんど独断で欧米諸国と開港条約を結び、これに反対するものを捕縛し処刑する「安政の大獄」事件を起こす。
このために、万延元年(一八六〇)三月三日、江戸桜田門外で直弼は水戸や薩摩藩の浪人の襲撃を受けて殺害される。四六歳の短命が「一期一会」に強い印象を投げかける。
「幾たびおなじ主客と交会するも、今日の会に再びかえらざることを思えば、実にわれ一世一度の会なり」と彼のいうとおり、おなじ友人に再び会えるという保証はどこにもない。したがって一期一会は、”会ったときが別れのとき”となる。
いま、誰かとの出あいを”会ったときが別れのとき”と見すえると自分自身の生きざまを自主的に規正できよう。」
と『一期一会 禅のこころに学ぶ』に書かれています。
格調高い文章に在りし日の松原先生を思います。
紀州和歌山から訪ねてきた中学生にも松原先生は「一期一会」の心で応対してくださったのだと思います。
それが一人の中学生の人生を決めたのでした。
松原先生からいただいていた「一期一会」の色紙を出して拝見していました。
こちらの書は百一歳と書かれていますので、最晩年のものです。
明治四十年一九〇七年にお生まれになり、平成二十一年二〇〇九年にお亡くなりになっています。
十七年前の七月二十九日、松原先生がお亡くなりになったと知らせを受けてすぐさま龍源寺に駆けつけ、書院に横たわるご遺体の前で読経したことも思い出します。
お墓参りは、亡き人を偲ぶとともに、自分の人生の原点を思い返す機会ともなりました。
横田南嶺