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臨済宗大本山 円覚寺

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2026.04.15
今日の言葉

禅問答に学ぶ生きた仏法

禅問答とは、『広辞苑』に「禅家で、修行者が疑問を問い、師家がこれに答えるもの。」それから「転じて、ちぐはぐで分かりにくい問答。」と解説されています。

それからもう少し付け足すと、ここには「修行者が疑問を問い、師家がこれに答えるもの」とありますが、指導者の方から修行者に難解な問題をなげかけて工夫させるものもあります。

『臨済録』の行録には、臨済禅師が修行時代にいろんな禅僧を訪ねた問答が載っています。

こんなのがあります。

岩波文庫の『臨済録』から入矢義高先生の現代語訳を参照します。

襄州の華厳和尚のところへ行った。華厳は拄杖にもたれて眠っている態であった。師「老和尚、いねむりするとは何事です。」華厳「傑物の禅客はなるほど違う。」師「侍者よ、和尚にお茶を立ててあげなさい。」華厳はそこで維那を呼んで言いつけた、「この上座を第三位の席に案内してあげなさい。」

という問答です。

華厳和尚という方を訪ねていったのですが、和尚は杖にもたれてわざと居眠りする仕草をしてみたのでした。

眠るふりをするというのは、日常の如何なる動作も仏の営みであるという馬祖禅師の教えを受け継いでいる方のはたらきだと察します。

日本の盤珪禅師が、

「起ば起まま、寝りや寝まま、眠れば覺た時の佛心で眠り、覺れば眠つて居た時の佛心で起て居る。

眠れば佛心で眠り、覺れば佛心で覺て居れば、不斷佛心で居て、常に餘の物で居るといふ事は、暫時の間もござらぬ。」

と仰せになっています。

しかし、臨済禅師はひるむことなく「いねむりするとは何事です」と詰め寄ります。

和尚は、「傑物の禅客はなるほど違う。」と称えます。

「傑物の禅客」は原文では、「作家の禅客」であります。

作家は、もと家を治める意味でしたが、そこからやり手のことをいうようになりました。

文学的才能を褒める意味も唐代から見えるようです。

禅家でも優れた受け答えをする人物のことを「作家」と呼んでいます。

臨済禅師は、更に「侍者よ、和尚にお茶を立ててあげなさい。」といいます。

和尚は「この上座を第三位の席に案内してあげなさい。」と言ったのでした。

わずかの問答でも臨済禅師の力量を見抜いたのでしょうか、第三番目の席とは高位であります。

註釈には後堂首座と書かれています。

またこんな問答もあります。

こちらも岩波文庫の『臨済録』から入矢義高先生の現代語訳を参照します。

翠峰和尚のところに行った。峰「どこから来られたか。」師「黄檗から来ました。」峰「黄檗はどんな教えで雲水を指導されているか。」師「黄檗には教えはありません。」峰「どうしてないのか。」師「たとえあっても言いようはありません。」峰「まあ、言ってみなさい。」師「一箭西天に過ぐ。」

どこから来たのかと問うのは問答の常套語のようなものです。

臨済禅師も黄檗のところから来たと素直に答えます。

黄檗はどんな教えを説いているのかと問われて、臨済禅師は、

「黄檗には教えはありません。」

と答えています。

どうして無いのかと問われて、「たとえあっても言いようはありません。」と答えます。

山田無文老師は、禅文化研究所の『臨済録』で

「「そりゃ、朝から晚までしゃベっておりますが、おまえさんに聞かすようなことはござらんわい」
人に受け売りするようなことは、言うておりません。

二番煎じは役に立ちませんわい。」

と提唱されています。

それでも「まあ、言ってみなさい。」といわれて、臨済禅師は「一箭西天に過ぐ。」と答えます。

矢はインドヘ飛んで行ってしまった。なんの跡かたも手掛かりもないということです。

無文老師は、

「黄檗の言葉は、そこらにころがっておりませんわい。天竺の向こうまで行ってしまいましたわい。
どこまでも相手には引っかからん。臨済の機鋒の鋭いところである。」と提唱されています。

更にこんな問答も続きます。

象田和尚のところへ行って、師は問うた、「凡夫でもない、聖者でもない、そこをすぱりと言って下さい。」田「わしはただ見ての通りだよ。」師はすぐに一喝して言った、「そこいらの雲水どもは、ここで一体どんなメシを目当てにしておるのだ。」

迷いも悟りもない、そこをお示しくださいという臨済禅師に

「わしはただ見ての通りだよ。」というのですが、どうも精彩がありません。

こんな和尚のところにいても何もならぬぞといって去っていくのです。

こんな問答も続きます。

明化和尚のところへ行った。化「行ったり来たり、何をしているんだ。」師「わらじをすりへらそうとしているだけですよ。」化「つまりどういうことか。」師「このおやじ、とんと話も通ぜぬ。」

というものです。

草鞋をすり減らすだけだという、そこに実に味わいがあるのです。

しかし、それが分からないなら、話にもならぬとばかりに臨済禅師は去っていくのでした。

黄檗禅師のもとで修行して、更に行脚をするのですが、当時の禅僧たちと次々と問答して行くのであります。

どれもが実に見事な問答なのであります。

随処に主となれば、立処皆真なりというところをよく表しています。

そして活潑潑地、生き生きとしているのです。

若き臨済禅師のお姿が彷彿としてきます。

こういう見事な問答ができるような心境に達するには、どうしたらよいのか、後に看話禅という方法が形成されていきます。

祖師の言葉に全意識を集中させて修行をするようになるのです。

臨済禅師の問答などを拝見するとなんといっても生き生きとしています。

その生きた姿こそが、生きた仏法そのものなのであります。

 
横田南嶺

禅問答に学ぶ生きた仏法

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