坐禅の核心
聖徳太子は、西暦五七四年から六二二年までのお方なので、中国の六祖慧能禅師や馬祖道一禅師よりも古い時代の方であります。
六祖慧能禅師は西暦六三八年のお生まれですので、聖徳太子がお亡くなりになったあとの方であります。
そう言われてみますと、聖徳太子は実に古い方だと改めて思いました。
そして、『法華経』にある「我本、心に希求すること有ることなかりき、今此の宝蔵自然にして至りぬ」という言葉を示してくださいました。
この言葉の書いた聖徳太子の直筆の書も見せてもらいました。
これは『法華経』の信解品にある長者窮子のたとえに出てくる言葉です。
長者窮子の話のあらましを申し上げます。
インドの国に国一番の大長者がいました。
長者には一人の子供がいたのですが、どういうわけか、子供の頃に行方不明となっていました。
インド一の財産を持って何不自由ない暮らしをしながら、長者の心には我が子のことが気にかかって仕方ありません。
そんなある日のこと、大勢の付き人を従えて、邸宅の庭先で涼んでいたところ、遠くから通りを眺めていますと、ふとわが子の姿を目にいたします。
なんと我が子は放浪の暮らしをしていました。
子供と別れて既に何十年も経っていますが、親子ですから、たとえどんな姿をしていようが一見して我が子とわかります。
逆に子供の方はというとまだ幼い頃に別れたので、父親のことははっきりしません。
遠くから邸宅の中をのぞくと、大勢の付き人を従えて悠々と涼んでいる姿を見て、何という人だろうか、果たしてこの人は王様だろうかと思って通り過ぎようとします。
ところが父親は我が子だとすぐにわかりましたので、家の者に「すぐあの者をとらえて連れてくるように」と命じます。
その子は早く通り過ぎようとしたところ、いきなり追っ手が迫りますので、何事かと思って逃げようとします。
その子はこれは殺されると思って逃げますものの捕まってしまいます。
殺されると思うものですから、気を失ってしまいます。
そのことを長者に報告すると、長者は、しかたないと思い、そこで無理につかまえることはやめて、我が子をいったん町に放します。
そこで、自分の家臣の中でも見たところいかにも貧相な者を選んで、みすぼらしい格好をさせて、我が子に安心させて近づかせます。
そしてその子にとりあえず、よそには行かないようにさせて、良い仕事があるぞと話して持ちかけて、長者の家の手洗いの掃除をさせます。
何年か手洗いの掃除をさせて、こんどは庭の掃除をさせます。
毎日毎日庭の掃除をさせてわずかの賃金を与えます。
馴れてくるとこんどは座敷の掃除を命じます。
室内の掃除をさせて、少しばかりの賃金を与えます。
こんどは長者の秘書のような役をさせます。
長者の身の回りの世話をさせます。
更に長者の財産の管理、蔵の管理もさせます。
そうして何年もかかって、長者のあらゆる資産を全部把握させます。
長者とも随分親しい間柄になりましたものの、その子はいまだに自分は、長者とは縁もゆかりもない者、この膨大な財産も全く自分には関係のないものと思いこんでいます。
やがて長者も体が衰えて、病気になり寝込みます。
いよいよ病重くなって危篤に陥ります。
いよいよとなって長者は国中の者を集めて遺言をします。
そこで初めて、ここにいるこの者こそ我が子である、何十年も昔に別れたきりの間違いのない我が子である、我が家の財産は悉くこの子のものであると言って息を引き取ります。
このときに長者の子が、私はもと何も求めるところはなかったのだけれども、この宝の蔵が自然と手に入ったのだと言っています。
それから馬祖禅師と大珠禅師の問答を示してくださいました。
こういう問答です。
大珠禅師が馬祖禅師に参禅しました。
馬祖禅師は、「どこから来たのか」と尋ねます。
大珠禅師は、正直に「越州の大雲寺から参りました」と答えました。
馬祖禅師は、「何を求めてここに来たのか」と問います。
大珠禅師は「仏法を求めて来ました」と答えます。
そこで馬祖禅師は言いました、
「自らに素晴らしい宝の蔵があるのに、それをおいて走り回っていって何をしようとするのか。
私のところには、あなたに与えるものは何も無い」と。
そう言われてもまだ分からない大珠禅師は、礼拝して更に問いました、
「一体私自身にある宝の蔵とはどのようなものでしょうか」と。
馬祖禅師は、「今私に質問している者、それこそが宝の蔵なのだ。
その宝の蔵には、あらゆる教えが皆具わっていて何も欠けるところが無い。
そしてその宝を自由自在に使うことができるのだ。
そんな宝を持ちながら、どうして外に向かって求めようとするのか」と示されました。
大珠禅師は、そう言われてハタと気がつきました。
こういう問答です。
奘堂さんは、馬祖禅師は『法華経』の宝蔵の譬えを実に深く受けとめたことが、この大珠禅師との問答からよく分かると示してくださいました。
大珠禅師は「仏法を求めに来た」と答えたにもかかわらず、その時点で既に、「自家の宝蔵をなげうっていることに気づかないまま、外に何かを求めていることだ」と示しています。
「本来使用自在な自家の宝蔵を自在に使用すること」、これが仏法を生きることである、このことが馬祖禅の根幹だと奘堂さんは力強く示してくださいました。
馬祖禅師は、百丈禅師に示された「仏の旨趣」を問われた際に、「正にこれ汝が身命を放つ処」という言葉や、
百丈禅師の「身心を放ち捨て、全く自在にせよ」という言葉を示されて、この身心を放捨がそのまま「正身端坐」となるところ、これが「坐禅」だと奘堂さんは説いてくださいました。
奘堂さんは、法華経の宝蔵の譬えや、馬祖禅師の言葉を深く受けとめ、「坐禅」とは、「本来具足の宝蔵を自在に使用することだ」と受けとめ実践したのが、道元禅師や白隠禅師の坐禅だと示してくれていました。
道元禅師の『普勧坐禅儀』の最後には「宝蔵自ずから開けて受用如意ならん」の言葉があります。
そこから奘堂さんは「坐禅」することは、即ち、「自らの宝蔵を受用し如意に使うこと」だと説かれました。
そうしてディオニソス像の解説があって、実習に移りました。
いつもながら坐禅の核心を示してくださる、有り難い講義でありました。
横田南嶺