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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.02.16
今日の言葉

人間学塾・中之島

2月は毎年人間学塾・中之島で講演をさせてもらっています。

二〇一四年からですので、もう十一年となります。

はやいものだとしみじみ感じます。

人間学塾・中之島というのは、森信三先生の教えを学ぶ会であります。

森先生の御高弟であった寺田一清先生がおはじめになったものです。

もとは天分塾といっていました。

それが平成二十五年から人間学塾・中之島として始まっています。

私はその第二回から講師を務めてきています。

先月お亡くなりになった鑰山秀三郎先生は、その天分塾の頃からの講師でありました。

平成二十六年私は初めてこの人間学塾で講義をしたときには、今北洪川老師の『禅海一瀾』について話をしました。

はじめは森信三先生の教えを学ぶ会というので、教師の方々の集まりかと思っていました。

ところが実際には教師の方は少なく、実社会ではたらいていらっしゃる方がほとんどなのです。

洪川老師の『禅海一瀾』について講義したのですが、難しかったという声が聞こえました。

ただこの第一回には、寺田一清先生も鍵山秀三郎先生も共に最前列で聴講くださったのでした。

これは忘れがたい光景でありました。

鍵山先生は、疎開先の岐阜県で、佐光義民先生から『禅海一瀾』を教わっていたのです。

ご高齢になってもまだもう一度『禅海一瀾』を学ぼうというお気持ちをお持ちになっていたのでした。

私は、そのあと

平成二十七年は、無学祖元禅師に学ぶ
平成二十八年は、夢窓国師に学ぶ
平成二十九年は、盤珪禅師に学ぶ
平成三十年は、坂村真民先生と河野宗寛老師について
平成三十一年は、釈宗演老師の慈悲と寛容
令和二年は、怨親平等について
令和三年は、天台小止観について
令和四年は、ほほえみの種をまく 拈華微笑について
令和五年は、臨済禅師に学ぶ
令和六年は、仏陀に学ぶ インド仏跡巡拝を終えて

という話を続けてきました。

そして今年は栗山英樹さんとの出会いから禅の修行についてお話したのでした。

会の始まりには、先月お亡くなりになった鍵山先生へ黙祷を捧げることから始まりました。

私も自分の講演では、まず鍵山先生とのご縁についてお話させてもらいました。

鍵山先生との対談本『二度とない人生を生きるために』にある

「もともと私は陰性の性格です。放っておいたら不機嫌な顔になります。ただでさえ世の中を呪うような顔つきをしているうえに、本当に人を怨んだら、極めて不愉快な印象を与えてしまうでしょう。
それは怠惰だと、佐光義民先生から言われました。

「不機嫌な顔は怠惰だ」と。

その言葉を心に刻んで、何があっても、人を怨まず、努めて明るく丁寧にふるまうようにしてきました。」

との言葉を紹介しました。

講演のあとの感想では「不機嫌な顔は怠惰だ」という言葉が印象に残ったという声が多く聞かれました。

大事な言葉であります。

禅の修行については、栗山英樹さんに体験してもらったことを順に話をしました。

まず庭詰からです。

玄関で頭をさげて入門を乞うのです。

今ではもう儀式化してしまっていますが、一心にお願いする姿は尊いものです。

この時のこれから禅の修行をするのだと決意してお願いするときの心が一番尊いのですと話をしました。

『華厳経』に「初発心時便成正覚」という言葉があります。

その道に入らんと思ふ心そ、我が身ながらの師匠なりけれ

という道歌も紹介しました。

それから鐘を撞いてもらった話をしました。

そのおりに森田悟由禅師の修行時代の逸話を紹介しました。

禅文化研究所発行の『禅門逸話集成第三巻』から引用しましょう。

「奕堂和尚が、加賀の天徳院に住していた時のことである。

ある朝、奕堂は暁鐘の音に耳をすましていた。

その音には、いつもと違う響きがあった。

鐘を聴き終わった奕堂は、侍者に命じて鐘点役を自室に呼ばせた。

間もなく、新参の小沙弥が奕堂の部屋に出頭した。

奕堂は、その小僧を見て、
「今朝の鐘は、いかなる心得でついたのじゃ」
とたずねた。

その小僧は、
「別にこれという考えもなく、ただ鐘をついただけでございます」

と答えた。すると奕堂は、

「いや、そうではあるまい。何か心に覚悟するものがあったであろう。

同じ鐘をつくのなら、今朝のようにつくがよい、誠に尊い響きであった」

と、小僧をほめた。

そのようにほめられても小僧は得意になることもなく、
「別に覚悟というほどでもございませんが、国もとの師匠が、何事をなすにも仏につかえる心を忘れてはならん。

たとえば鐘をつく時にも鐘を仏と心得てつくのだ、とつねづね教えて下さいましたので、一拜しては第一鐘をつき、二拝しては第二鐘をつき、礼拝しながらついたばかりでございます」

と答えた。

奕堂和尚は、しみじみとその覚悟をほめ、

「そのように教えられる師匠もすぐれた方であるが、それをいわれたとおりに守るおまえさんも感心じゃ。

終世、その覚悟を忘れるのではないぞ」
と、はげました。

この小沙弥こそ、後年の永平寺貫首森田悟由禅師である。」

という話であります。

お昼の食事を仏さまに捧げるときに鐘を鳴らしながら観音経を読んでいくのであります。

仕方なしにただ撞いているのか、あわてて撞いているのか、仏さまだと思って拝む心で撞いているのかで音色はみな違って参ります。

鐘の音色で修行僧の様子がよくわかります。

そんな話をしていると皆さんは怪訝そうな顔をなされましたので、みなさんも朝子供が起きてきたら「おはよう」というその一声で子供の様子が分かるでしょう。

学校から帰ってきたらその戸を開ける音で、ただいまの声で子供のことがかなり分かるでしょう。

今日は何かあったのかと心配になることもあるでしょうし、何か嬉しいことでもあったのかと感じることもあるはずです。

そんなものですと伝えました。

それから薪でご飯を炊いて食事の支度をすること、黙って感謝していただくことなどの話をしました。

坐禅の話では止観について、「人間にとっての一番大切なことは、「感情を波立たせないこと」と「思考力を正しくはたらかせること」ーつまり止と観という二つの機能を正確に操作することに尽きる」と話をしました。

終わった後の質問では、どうしたら感情を波立たせないようにできるのかというのがありました。

これは難しいものです。

感情が激しくて、その波にのまれてはどうしようもありませんが、全く感情がなくなっても困ります。

自分の心に感情の波があって、その波の様子を静かに見つめる工夫をしましょうと伝えました。

静かに見つめているとそれだけで感情の波は収まってくるものです。

そうして九十分の講演と質疑応答を無事に終えました。

十年以上も通っているとよく存じ上げている方も多くなり、毎年こうしてお招きくださるのはとても有り難いことであります。

 
横田南嶺

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