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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.10.18
今日の言葉

いとま無し

十月は、円覚寺では諸行事が多くて、たださえたいへんな時期であります。

二日と三日で開山忌、それから四日と五日で達磨大師のご命日の法要を務めます。

十五日は、円覚寺で大事な行事である仏舎利のご開帳があります。

そんな合間をぬって私は京都にも出かけなければなりません。

開山忌などの諸行事を終えて、花園大学に行って授業、それから禅文化研究所の六十周年の記念式典を開催し、さらに大学での摂心を行ってきました。

禅文化の式典も今までは招待されて坐っていればよかったのですが、こんどは主催者の立場ですので、いろいろの方にご挨拶をしなければならず、気遣いをするものであります。

京都滞在の最終日は、大学の摂心となりました。

大学の摂心もいろいろの試行錯誤があったようであります。

摂心というのは、元来は「心を摂めて昏沈散乱させないこと」であります。

摂心会というと、「また特志の参禅者を集めて一定の期間接心を行わせる坐禅会」と言います。

もともと花園大学は臨済禅を学ぶ為の大学でありましたので、摂心も盛大に行っていたのでありました。

山田無文老師がお入りになった頃花園大学はまだ臨済宗大学といっていました。

無文老師の『わが精神の故郷』という禅文化研究所発行の本には、当時の摂心の様子が書かれています。

毎学期大摂心があって、一週間八幡の円福寺の僧堂で摂心をなされていたというのです。

『わが精神の故郷』には次のように書かれています。

「秋の大接心のときであった。わたくしたちはめいめい座布団と日用品をかついで、八幡の円福寺へ籠城した。

広い禅堂であったが、五、六十人のものが坐ると、ぎっしりいっぱいだった。

そのとき、わたくしの真向かいに坐っておるクラスメートが、じつに坐禅に熟達しておった。

彼は学校へはいる前に、博多の聖福寺で数年、坐禅をしてきておるのである。

わたくしが足が痛くなったとき、ふと彼を見ると、彼は坐ったままびりっともしていない。

わたくしが眠くなってふと彼を見ても、彼は動かない。

わたくしが体がだれて、どうにもならなくなってふと彼を見ても、彼はさゆるぎもしない。

わたくしは大いにファイトをわかした。負けてなるものかと坐りこんだ。

四、五日たつと、わたくしも坐って坐ることを忘れ、立って立つことを忘れ、身心を忘却するところまで進んだ。

まことに神人合一の静寂さである。

そして第六日ごろ、参禅の帰りに、本堂の前の真黄色な銀杏を見たとき、わたくしは飛び上がるほど驚いた。

わたくしの心は忽然として開けた。無は爆発して、妙有の世界が現前したではないか。」

という体験をなされています。

そのあとは

「隠寮へ走って参禅したら、公案は直ちに透り、二、三の問題を出されたが、その場で解決してしまった。

天の岩戸はたちまち開かれ、天地創造の神わざが無限に展開されたのである。

すべては新しい。すべては美しい。すべては真実である。

すべては光っておる。そしてすべては自己である。

わたくしは欣喜雀躍した。

手の舞い足の踏むところを知らずとは、まさにこのことであったろう。
天地とわれは不二である。」

と書かれています。

一週間に亘る摂心でこんな素晴らしい体験をなされたのであります。

こういうところに禅の醍醐味はあるものです。

もっとも今の大学でこのような一週間もの摂心は無理であります。

私が総長に就任して摂心はどのように行われているのかうかがってみると、今も行われているというので、是非ともと思って、摂心のお話をさせてもらい、それから一緒に学生さんたちと坐るようにしてきました。

ところがなかなか学生が集まらないのが実情でした。

とくに近年はコロナ禍の影響もあって難しい状況でした。

授業のある日にはできないので、後期の授業が始まる前に開催したりしていました。

ところが九月はとても暑くてたいへんなのです。

そこで昨年は一年の授業が終わった後に開催したのですが、年末であり、学生さん達は帰省したりして参加者は十名にも満たなかったのでした。

そこで今年は、授業にあてて摂心をするようにと工夫してくれたのでした。

今年から私は「禅とこころ」という授業の他に、前期一回、後期一回と基礎禅学という授業も担当しています。

基礎禅学は全学生必修の授業なのです。

前期と後期とに分けて全学生に総長が話をするというようにしたのであります。

この講義を摂心の提唱に位置づけたのでした。

そして午後に実践禅学という仏教学科の坐禅がありますんので、それに合わせて学生さんたちの希望者を募って坐禅をしました。

その授業のあとにも希望者のみ坐禅をしたのでした。

昔のように独参というのは難しいので、最後には私と学生さんたち有志の方の懇談を行うようにしたのです。

そんな次第で二百名を超える学生さん達に話をして、午後から大学の坐禅堂で学生さんたちとゆっくり坐ったのでした。

十月のとても気候のよい時期で、窓から吹いてくる秋の風が心地よくて、風と我と一体となって境目がなくなる坐禅を味わうことができました。

私としてもとても有り難い坐禅でありました。

しかしながら、懇談の折に学生さんたちの感想を聞いてみると、皆一様に足が痛かった、足の痛いのを我慢するのでたいへんだったというだけでありました。

特に今の方々はイスの暮らしをしてきていますので、座布団の上で坐って長時間過ごすというのはそれだけで苦痛なのだと分かりました。

もっとも仏教学科でこれから修行道場に入ってお寺の後継者にならなければならない方はある程度足の痛みにも辛抱して坐禅という形ができるようにしなければなりません。

しかし仏教学科以外の学生も多いのですから、そういう学生さんたちにはただ足の痛みに耐えるだけというよりもイスの坐禅も取り入れてもいいのではないかと感じました。

かくして一日摂心を終えて夜に鎌倉に帰りました。

翌日は午前中建長寺でZen2.0の企画で「土になる禅ー鈴木正三に学ぶ」と題して講演、午後からは横浜の朝日カルチャーセンターで「平常心で生きるー「無門関」の教えとともにー」と題して講演でありました。

疲れるようにも思いますが、京都の最終日は摂心でゆっくり坐禅ができましたので、疲れは感じないのでした。

そして次の日も建長寺で私の講演の前に小笠原和葉先生の「しなやかに坐す身体のためのボディーワーク」という講座があって受講しました。

これがまた素晴らしい実践講座で、からだがすっかりほぐれて楽になりました。

「小人、閑居して不善をなす」という古い中国の言葉がありますが、私などは暇をもてあそぶとろくなことはありませんので、こうして次々課題を与えられて勉強し坐禅をしていますと、有り難い修行になるのであります。

 
横田南嶺

いとま無し

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