謙遜と自負
白隠禅師に学ぶと題して九十分のご講義でありました。
白隠禅師の半身達磨の成立過程について学ぶことができました。
はじめに白隠禅師が三十五歳の時に書かれた達磨大師の絵を画像で見せてもらいました。
これが一見すると、とても白隠禅師のものとは思われないものです。
とても緻密な絵であります。
達磨大師のおひげや、髪の毛も一本一本丁寧に細い筆で書かれています。
それから讃に書かれている言葉もとても長い偈であります。
それも晩年の太い書とは全く異なり、細くて独自の書体であります。
白隠禅師が原の松蔭寺にお入りにになったのは、三十三歳の時ですから、そのまだ二年後に書かれたものです。
現存するもっとも初期の達磨像とのことでした。
讃は長いのですが、その中にこんな一文があります。
芳澤先生の現代語訳を引用します。
「多くの者が、ダルマそのものを捉えようと、あるいは、夜を徹して坐禅をする、あるいは、(ダルマはこのとおり、掌中にござる、分明に見届けてござる)などという者もあるが、どちらも真のダルマには、遠い遠い。
真のダルマは、描くことも、詩に表すこともできぬ。」
とあります。
それから四十歳代の達磨大師の画像も見せてくださいました。
こちらも晩年の達磨大師の絵とは異なるものです。
その名前を書かれているところに注目されました。
名前が、「鵠林野衲乎哉拝圖焉」と書かれています。
鵠林は、松蔭寺の山号であり、白隠禅師がご自身の号としても用いられたものです。
野衲はご自身を謙遜して言われたものです。
「衲」は、名詞で「ころも。僧侶の衣服」を意味し、「僧侶。また、その自称」として用いられる文字です。
その次の「乎哉」が問題であります。
「乎」という文字は「平」にも似ているので間違いやすいのですが、これは「乎」だそうです。
白隠禅師が三十五歳の時に書かれた文殊菩薩の絵にも、ご自身のことを「細工絵師乎哉」と書かれています。
細工絵師というのは、どういう意味なのか、「細工」とは『広辞苑』を調べてみると、「手先を働かせて細かい物を作ること。また、そのもの。その職人」という意味や、「細かな点についてのくふう。特に、小さな点を変えるなどして、人目をあざむこうとする企み。」という意味が書かれています。
そのほかに、「(名詞の上に付けて)本格的でない、素人臭い、の意」という意味もあります。
この「細工絵師」とは、この本格的ではない、素人臭いという意味なのです。
ただ『日葡辞書』には「手の器用な職人」という意味もあるそうで、「本格的でない、素人臭い」という意味と、「技能が達者な絵師」という両義を持っているということでした。
さて問題が「乎哉」であります。
「乎」は「か」と読み、「~であろうか」と訳します。
文末・句末におかれて疑問の意を示します。
また「や」と読み、「どうして~であろうか」と反語の意を示します。
「か」と読み、「~だろう」と訳して推測の意を示します。
それから「や」と読み、「~よ」と訳し呼びかけに用いたりもします。
「哉」もいろいろあります。
「か」と読み、「~か」と訳して疑問の意を示します。
「や」と読み、「どうして~であろうか」と訳し反語の意を示します。
「かな」と読んで、「~であるなあ」と訳します。
これは感嘆の意を表します。
「乎哉」で「感嘆の気持ちをあらわすことば」として使われます。
また疑問の気持ちをあらわすことばとしても使われます。
反問の気持ちをあらわすことばとしても使われます。
『論語』に
「子の曰わく、仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、斯に仁至る」という句があります。
遠からんやというところに用いられています。
意味は、先生がいわれた、「仁は遠いものだろうか。自分から仁を求めれば、仁はすぐやってくるよ」というのです。
岩波文庫『論語』にある金谷治先生の現代語訳です。
また芳澤先生は、僧肇の『肇論』にある、言葉を示してくださいました。
「道遠からんや、事に触れて真なり」という言葉です。
道はどうして遠いことがあろうか、そんなことはないという反語です。
一切すべて真理のあらわれなのだというのです。
芳澤先生は、この句をふまえた上で白隠禅師は「乎哉」の号を用いていると指摘されていました。
一方で「乎」も「哉」も助辞で漢文では文末におかれるものです。
「之乎者也」というと四つの助辞を集めたもので、それ自体は何の意味も持たないところから「無用の言句」という意味で禅の語録では用いられると解説されていました。
入矢義高先生の『禅語辞典』にも
四字とも文語の助字。それをもてあそぶのは知識人の得意とするところ。空論をもてあそび、学識をてらうこと。「なるらんけるかな」のひけらかし」と解説されています。
かつて小川先生に『宗門武庫』を教わった時にも出てきたことばです。
湛堂文準禅師が作った洗鉢頌に出てきます。
「之乎者也
衲僧の鼻孔 大頭下に向く
若也し会せずんば東村の王大姐(だいしゃ)に問取せよ」というものなのです。
黄龍死心禅師は湛堂文準禅師に出会ったことはないけれども、この偈を見てその力量を見抜いて、雲厳院の後任に推挙したという話でした。
その時に小川先生は、この偈を、
「『なりけりあらんや』も なんのその
わが鼻は このとおり ちゃんと下向きについている
そこのところが解らなければ そこらのおばちゃんにきくがよい」
と分かりやすく訳してくださったのでした。
「之乎者也」は、「古典に常用される文語の助字。そこから、現実の役に立たない、空疎で迂遠な読書人の学問の喩え。記誦詞章の勉学を揶揄する語。」というのでした。
そこで白隠禅師が自らを「細工絵師乎哉」と称するのは、
「禅僧の本分ではないところの(いらざる「乎」や「哉」という助辞のような) 画筆を弄して描いております」と謙遜しているのだが、
同時に一方では、「この絵もまた、どうして〈道〉に遠いことがあろう、ここに真理の端的を描き表わしておるのだ、〈道遠からんや、事に触れて真なり〉 ですぞ」という自負を表している。」
という解説でありました。
白隠禅師が「乎哉」と自らを称していたというのは初めて知りました。
謙遜されながらもそこに自負を持っているのも白隠禅師らしいと思ったのでした。
横田南嶺