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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.01.10
今日の言葉

臨済禅師のご命日

本日一月十日は、臨済禅師のご命日であります。

円覚寺では朝六時にご命日の法要をお勤めします。

臨済禅師とはどんな人なのか、『禅学大辞典』で調べてみますと、

「唐代の人。臨済宗の開祖。

河南省曹州南華の人。俗姓は邢氏。

幼時より衆にすぐれた才をあらわし、長じては孝行の人として知られた。佛教を好み、出家受具して諸方の高僧に学び、はじめは主として律や華厳を学んだ。

しかし、これらの学は佛教の真実を得る道でないことをなげいて衣をかえて遊方した。

黄檗山の希運に参じて、非凡の才を認められ、禅の奥旨を探り、悟境に達したが、希運の指教により高安大愚に参じ、ついで、潙山に謁して、ふたたび黄檗の会下にもどった。

行業は純一で、同輩をはるかに抜き、識見は高邁卓抜、時に師希運をおどろかせた。

希運は百丈の禅板と几案を授けて、印可の証とした。

法を嗣いでのち、諸方の禅林の名宿を訪ね、大中八年(854)に鎮州(河北省正定県)東南の小院に住した。

この院は滹沱河の側に近いので、臨済院と号した。

この後、太尉黙君和は自分の居宅を寄進して寺とし、義玄を迎え、同じく臨済院と呼ばれた。

義玄の道風は遠く四方におよび、師を慕って道を求めるものが絶えなかった。」

と書かれています。

この臨済という名前については、小川隆先生の『『臨済録』禅の語録のことばと思想』には、

「そもそも「臨済」とは義玄が住持した小院の名で、河北の鎮州 城東南隅にあり、滹沱河の渡し場に臨んでいたことからこう名づけられたと伝えられる。

中国の僧侶の姓はみな「釈」なので、禅僧の場合、住持した寺院の寺名や山名を姓のかわりに冠して呼ぶことが多い。

たとえば、趙州観音院に住したので趙州、五祖山に住したので五祖法演という具合である。」

と書いてくださっています。

小川先生は「とりわけ黄河以北の地は朝廷の意の及ばぬ独立王国の様相を呈し」ていて「わが円仁の「入唐求法巡礼行記』会昌五年(八四五)一一月三日の条には、唐末の武宗による「会昌の破仏」(八四二ー八四五年) さえこの地に行われなかったことが」書かれていると指摘されています。

「会昌の破仏」については、小川隆先生の『禅僧たちの生涯』に、

「これによって、四千六百あまりの寺が壊され、二十六万五百人の僧尼が還俗させられ、さらに、四万余りの小院の破壊、数千万傾の田畑の没収、十五万人の奴婢の一般戸籍への移動が強行されました(『旧唐書』武宗本紀)。この「法難」で仏教界が潰滅的な打撃を蒙ったことは言うまでもありません。」

と書いてくださっています。

臨済禅師については生まれた年が定かではありません。

里道德雄先生の『臨済録』には、

「生まれた年は、おそらく元和元年、西暦では八〇六年から八二〇年くらいのところではないかと思いますけれどもわかりません」と書かれています。

お亡くなりになったのは、八六五年か八六六年のどちらかだろうと書かれています。

この頃は八六六年にお亡くなりになったとされることが多いようです。

もしも八〇六年のお生まれとすれば、六十歳でお亡くなりになったことになります。

八二〇年のお生まれだとすれば、四六歳となります。

臨済院にお入りになったのを八五四年とすれば、十二年ほどご活躍されたことになります。

おおまかに考えますと、四十歳から五十歳で臨済院に入り、五十歳から六十歳前後でお亡くなりになったというところでありましょう。

いつどこで修行したのかも分からないのですが、里道先生の『臨済録』によれば、

「ただし「臨済録』やそのほかの伝記記事に、臨済和尚が根拠にして使っている経典の名前や、思想の傾向などが記されています。

そういうものから逆に抽出してまとめますと、幾つかのことがわかってきます。

まず、どういう経論を使っているかを見てみますと、『法華経』、『華厳経』、『維摩経』、あとは『華厳合論』、『大乗成業論』、『法苑義林章』などが使われております。

したがって、天台から華厳、そして『維摩経』のような大乗仏教経典、 もちろん達摩以来の四巻本『楞伽経』といったものもしっかりと勉強していることわかります。」

というのです。

さてそんな臨済禅師が、若い日に黄檗禅師のもとで修行していました。

三年ほど純一に修行していて、修行僧の頭にあたる首座から、黄檗禅師のところに問答に行くように薦められます。

なにを問うてよいか分からぬという臨済禅師に、「如何なるか是れ仏法的的の大意」と問えば良いと教わります。

仏法の根本義と何か、仏法とはいったい何を明らかにしているのか、それを聞きに行けということです。

黄檗禅師のところに行って、聞こうとしましたが、その質問も終わらぬうちに棒で打たれて追い出されてしまいました。

そんなことが三度も続きました。

さすがの臨済禅師もあきらめて黄檗禅師のもとをおいとまします。

黄檗禅師から、大愚和尚のところに行くようにいわれて、その通りに大愚和尚を訪ねました。

大愚和尚から、黄檗はどのようなことを教えているのかと問われて、ことのいきさつを話し、私にいったい何の落ち度があったのでしょうかと問いました。

すると大愚和尚は、「黄檗はお前のためにそんなにも親切に、体がヘトヘトになるまで尽くしてくれたのに、お前はこんな処にまでやって来て、自分のどこが間違いだったのか、自分に落ち度が有ったのか無かったのかと聞いている。なんと情けないことか。」

と言われました。

その一言で臨済禅師は、ハッと気がつきました。

「黄檗の仏法多子無し」と仰ったのでした。

岩波文庫の『臨済録』に、入矢義高先生は、「ああ、黄檗の仏法は端的だったのだ」と訳されています。

余計な事は何もない、端的を示してくれていたということです。

なにを示したのかというと、黄檗禅師の『伝心法要』に次の言葉があります。

こちらは、筑摩書房『禅の語録8伝心法要・宛陵録』にある入矢先生の現代語訳を参照します。

「本来おのれの心が仏にほかならぬことを単刀直入に自覚し、かくて獲得すべき何らの法もなく、修むべき何らの行もないという境地に至れば、これは無上道であり、かくて成じ得た仏こそは真如仏なのである。」

ということです。

自心是れ本来仏であったと気がついたのでした。

臨済院に住してからは自由自在にお説法教化なされたのでした。

『禅学大辞典』に書かれているところによれば、「義玄の禅風は自由な、しかも活潑潑地な殺活自在底のもので偉大な禅僧の面目を躍如として伝えている。

この法系は宋代に至って大いに栄え、清代まで中国禅宗の一大主流として存続した」のであります。

 
横田南嶺

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