一人でもいい
愚痴めいたことも書かないように気をつけています。
やはり朝聴いてくださるという方が多いようなので、今日も一日頑張ろうという気持ちになってもらえるように気をつけています。
それなので、昨年末に花園大学に行って、摂心をしたことは書かないでいたのでした。
私が総長に就任して、いつも九月の後期授業が始まる前に、大学の摂心を行っていました。
総長に就任するまで、最近は提唱という講座もなかったらしいので、私は就任して摂心に是非とも参加して、提唱をしようと決めていたのでした。
コロナ禍で開催できなかったこともありましたが、例年多くの学生さんたちが参加してくれていました。
昨年はまだコロナ禍ということもあって、二十名ほどの参加になっていたのでした。
今年は、どういう訳か、年末の授業が終わってからの摂心となりました。
年末だし、学生さんたちも帰省してしまうのではないかなと思っていました。
どれくらいの学生さんが参加してくれるのかと思って、その日の朝早く出て十時からの坐禅に間に合うように行ったのでした。
坐禅堂に入ると、坐っている人は十人にも満たないのです。
これから来るのかなと思っていましたが、やはり十人に満たない人での摂心となりました。
二百名が坐れる坐禅堂に数人というのは、些か寂しい感じがしました。
しかし、坐禅というのは決して人数が問題ではありません。
まず自分が坐ることが大事なのです。
たとえ誰もいなくても坐るのが坐禅であります。
こうして年末の慌ただしい一日、坐ることができるのは幸せだと思って一日坐禅をしてきたのでした。
昼前には提唱をしました。
本来なら、禅堂で坐禅の姿勢のまま行うのですが、学生さんは坐ることに馴れていないので、教堂というイス席に移動してもらって、お話をさせてもらったのでした。
終わった後には、学生さん達と毎年懇談の場も設けていますので、それも行ってきたのでした。
せっかく鎌倉から出向いて、小さな大学とは言え千何百名もの学生さんがいるので、また臨済の禅を建学の精神としているわけですから、もう少し参加してもらってもいいのではないかなと思いはしていたのでした。
総長になって摂心には是非とも参加しようと思ったのは、山田無文老師の本に大学摂心の時の思い出が書かれいるのを読んで深く感銘を受けていたからでもあります。
山田無文老師の『我が心の故郷』(禅文化研究所)には、次のように書かれています。
山田無文老師がお入りになっていた頃の大学はまだ臨済宗大学と呼ばれていた時代です。
『我が心の故郷』には、
「そのころの臨済宗大学は、一クラス十人か十五人ぐらいの四年制で、いわば寺子屋か塾のようなもので、まことに家族的で親しい学校だった」と書かれています。
そのあと次のように書かれています。
「秋の大接心のときであった。
わたくしたちはめいめい座布団と日用品をかついで、八幡の円福寺へ籠城した。
広い禅堂であったが、五、六十人のものが坐ると、ぎっしりいっぱいだった。
そのとき、わたくしの真向かいに坐っておるクラスメートが、じつに坐禅に熟達しておった。
彼は学校へはいる前に、博多の聖福寺で数年、坐禅をしてきておるのである。
わたくしが足が痛くなったとき、ふと彼を見ると、彼は坐ったままびりっともしていない。
わたくしが眠くなってふと彼を見ても、彼は動かない。
わたくしが体がだれて、どうにもならなくなってふと彼を見ても、彼はさゆるぎもしない。
わたくしは大いにファイトをわかした。
負けてなるものかと坐りこんだ。
四、五日たつと、わたくしも坐って坐ることを忘れ、立って立つことを忘れ、身心を忘却するところまで進んだ。
まことに神人合一の静寂さである。
そして第六日ごろ、参禅の帰りに、本堂の前の真黄色な銀杏を見たとき、わたくしは飛び上がるほど驚いた。
わたくしの心は忽然として開けた。無は爆発して、妙有の世界が現前したではないか。」
という体験をされたのでした。
「そのときの師家は、当時の学長であり、のち妙心寺派管長となられた神月徹宗老師であり、そのときの向かい側に坐っていたクラスメートとは、現平林寺僧堂師家、白水敬山老師である。
よい道友を持たなければ道は成就しないことを痛切に味わわされて、わたくしはいまも敬山老師に感謝しておる。
わたくしは学生諸君によく申すことである。 学生だから見性できないの、在家だから悟れないのということはけっしてない。」
と書いてくださっているのです。
素晴らしいお話なのであります。
こんな話に感動していたものですから、私も微力ながら、摂心には大学に行って皆と一緒に坐ろうと思ってきたのです。
もっとも今の花園大学は仏教学以外の方の方がはるかに多くなっているので、そんな昔のような学校ではありません。
それでも臨済の禅を建学の精神としているからには、もう少し坐禅してくれたら有り難いと思います。
年が明けて、その大学の摂心に参加されていた方から年賀状をいただきました。
その中に「大学摂心、老師様が私たちと一緒に坐禅を組んで下さっていたことで緊張感のある空間で坐禅ができました」と書いてくださっていました。
この言葉には涙が出るほど感動しました。
摂心に行って良かった、一人でもこう言ってくださる方がいらっしゃるのなら、鎌倉から一日坐禅に行って本当に良かったと一人感激したのでした。
私は修行道場でも一緒に坐るということが一番大事だと思って、毎日の坐禅も修行僧と共に勤めるようにしています。
大学でも一緒に坐ってよかったと心から思いました。
坂村真民先生に「一人でもいい」という詩があります。
一人でもいい
一人でもいい
わたしの詩を読んで
生きる力を得て下さったら
涙をふいて
立ちあがって下さったら
きのうまでの闇を
光にして下さったら
一人でもいい
わたしの詩集をふところにして
貧しいもの
罪あるもの
捨てられたもの
そういう人たちのため
愛の手をさしのべて下さったら
一人でも良かったと言ってくれたらそれでいいのです。
もっとも坐禅ですから、私一人が坐って良かったと思えばそれで十分なのであります。
横田南嶺