まことの心
そもそも成人式とはどんなものか『広辞苑』で調べてみますと、
「①成人の日に、国・地方自治体・企業などが主催し成人に達した人を祝う儀式。
②〔社〕成人に達したことを社会的に認知する通過儀礼。イニシエーションのうちでも最も重要なものの一つ。」
という解説があります。
地方自治体で行っていることが多いと思います。
円覚字でも成人式を開催しているのであります。
朝比奈宗源老師がおはじめになったとうかがっています。
毎年成人祝賀の式を行っているのです。
かつては、市内在住の新成人の方々に案内を出して盛大に行っていました。
近年は個人情報の問題もあって、円覚寺の幼稚園の卒園児や地元の方、ご縁のある方だけをお招きして小人数で行っています。
それでもお寺で行いますので、この頃話題になるような騒々しさは無く、厳粛に新成人の門出を祝っています。
朝比奈老師は、色紙に「誠」と書いて、新成人一人一人に贈っていました。
足立大進老師は「忍」の一字を揮毫していました。
私はいつも「至誠」の二字を書いて、新成人たちに差し上げています。
朝比奈老師が「誠」と書かれていたということは、なにより朝比奈老師のお人柄をよく表しているように思います。
そもそも「誠」とは何であるかというと、これもまず『広辞苑』を調べてみると、
「まこと」は「真・実・誠」と書いて、まず「ま(真)こと(事・言)」の意だとあります。
それから「①事実の通りであること。うそでないこと。真実。ほんとう。
②偽り飾らない情。人に対して親切にして欺かないこと。誠意。」
と解説されています。
朝比奈老師は、早くに両親を亡くされて、死んだ両親はどこに行ったのか、人間の死の問題について深く悩み考えられて、十一歳で清見寺で出家されました。
そこで仏教を学び始められたのでした。
朝比奈老師の『覚悟はよいか』にこんなことが書かれています。
「嘘をついちゃいかん。
嘘も方便という。
だが現代では、嘘も方便どころか、方便とは嘘のことであるという理解が行き渡っているのではないか。
バカをいっちゃいけない。方便は純然たる仏教語で、平ったくいうと、真実の悟りや智恵に達する手段をいう。
この意味で、お釈迦さまが悟りを開かれてから、こんにちに仏教というものが伝わっているというのも方便なら、お経も方便、修行も方便ということになる。
お経が嘘だったら、どういうことになるのだね。
儂が、そのことで頭がいっぱいになったのは小僧時代だった。英語のリーダーで、ジョージ・ワシントンの例の物語を読んだのだよ。
驚いてはいけない。英語をやったんだ、清見寺で。まあいってみれば、塾のようなものだったな。小僧の学校だ。」
というのです。
ジョージ・ワシントンの話というのは、よく知られています。
ジョージ・ワシントンが少年の頃、自宅の庭の桜の木を切り倒してしまいました。
しかしその木は、父親が大切にしていた桜だったのです。
ジョージ少年は父親から「あの美しい桜を切ったのは誰か?」と問われ、「嘘はつけない…」と逡巡しながらも、自分が伐ったことを正直に打ち明けました。
父は怒らずにその正直な告白を褒めたという話です。
朝比奈老師は、「なかでも、ジョージ・ワシントンがチェリー・トゥリーを切ったという話は、儂を奮い立たせた。
父親に正直に詫びて出たという話だ。非常に勇気づけられた。
嘘はつかないということになあ。
そうだ、と思った。この師匠や兄弟子たちの恩に酬いるには、自分を正しく持さなければならない。それにはなによりもまず嘘をつかないということだとひそかに決意した。」
と書かれています。
ワシントンの話ともう一つ朝比奈老師に影響を与えたのは中江藤樹でありました。
『覚悟はよいか』には、「それと、中江藤樹だった。やっぱり博文館から出ていた歴史物語をとり扱った本に、いろんな人の伝記が出ていた。
お釈迦さま、クリスト、孔子といったものから、日本の偉人まで。その中に中江藤樹先生の話があった。
近江聖人といわれたこの人の言葉を読んで感銘した。
「上、天子より下、庶人に至るまで、おのおの身を修むるをもってもととなす」
という意味の言葉に酔って、急に天地がひらけたような昂然たる気になったものだ。」と書かれているのです。
そのあとに朝比奈老師の人となりがよく分かる話が書かれていますので引用します。
「そのうちに、こういうことが起こった。
秋だった。ある日、師匠が畑を見回ってきて、風で落ちたネーブルを五つ六つ拾ってきた。
その時分にね、そういうハイカラな外国種のみかんを植えていたんだ。
師匠の拾ってきたのは、少しいたみかけていたかな。
お勝手の板の間に置いて行かれた。
三人がそれを見て、食べようじゃないか、ということになったんだ。
どうせ腐りかけているんだし、ここへ置いたのも儂らに食べよということじゃないかというんで、うっかり食べちゃった。
ところが、師匠があとから出てきて、儂がここへ置いたみかん、どうしたろう、とこう仰ったんだ。
さあしまった。が、「私です」といえないんだ。
三人とも、ねえ。さあ困っちゃって、黙ぁってしまった。
師匠は、こいつらが食ったに違いないと思ったはずだけど、子供だから些細なことは追及しないんだな。 黙って帰っちゃった。
さあ、それが私にはどーんと来た。
ああお師匠さんに嘘ついた、とねえ。
なぜあのとき「私です」と正直にいわなかったのかと、こんなに苦しんだことはなかったなあ。」
ということです。
それ以来少年の朝比奈老師は、まわりの者から残り物などをこっそり食べてしまおうと誘われても、断っていたのでした。
すると、どうなったかというと、
「しかしそのあとが大変だ。
儂が近江聖人を尊敬するあまり、その本をつねに机の抽出しに入れていることを知っているものだから、以来、儂を「セイジン」と呼ぶんだ。
「おいセイジン」とこうだ。
聖人の本なんか読んで我々とは別だと威張るな、という意味なんだろうな。
棘のある言葉だった。幼い身にはその苛めはこたえたが、それが、またずいぶん儂の試練になった。」
というのであります。
更に「それからも、つまみ食いなんかずいぶん多かったし、半ば大ぴらだったが、儂は仲間に加わらなかった。
だから仲間外れにされているのはわかっていたが、それでいいのだと妙に開き直ったところがあったねえ」と語っておられます。
このようにして、嘘をつかず誠を貫こうとされたことがうかがわれます。
朝比奈老師が書かれた「誠」の一字には、そんな少年の頃からの思いが込められていると思います。
更に「至誠」はというと、
「きわめて誠実なこと。まごころ。」とあります。
毎年成人式になって「至誠」という字を書きながら、まず自分自身を戒めているのであります。
横田南嶺