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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.01.07
今日の言葉

たゆまざる精進

本日一月七日、七草の日であります。

春の七草というと、『広辞苑』には、

「正月七日に摘み採って七草粥に入れる若菜。芹・薺(なずな)・御形・蘩蔞(はこべ)・仏座(ほとけのざ)・菘(すずな)・蘿蔔(すずしろ)の七種」というのであります。

修行道場でも、七日の朝は七草粥をいただくのであります。

そして、その日の朝から、また独参という禅問答の修行が始まります。

そうして今年も禅問答を休むことなく続けてゆくのであります。

私なども十三歳の時から始めて今もこの公案の修行を続けています。

長年やっていますが、終わりがあるというわけではありません。

仏道はこの上ないのです。

ひろさちやさんの『マンダラ人生論上』に、「ゆったり着実な努力を 「精進」のすすめ」という一章があります。

そこにこんな話が書かれています。

「小野次郎右衛門忠明といえば、江戸初期の剣術家で、小野派一刀流の祖である。

あるとき、彼のところに一人の剣客がやって来て、弟子入りをこう。彼はある程度、基礎ができていた。

「先生、わたくしが本気で修行すれば、どれくらいで奥義がきわめられますか?」

「そうだな、貴殿の腕前で本気でやれば、五年でいいだろう」

小野忠明はそう答える。

「では、寝食を忘れてやれば、どれくらいかかりますか?」

「それなら十年はかかる」

「では、命がけでやれば?」

「命がけでやると、まあ、一生かかっても奥義に達することはできんじゃろう」

剣客はおこりだす。そんなばかなことがあるものか…というわけである。

しかし、小野忠明は、これで正しいと言う。

そなたにこの道理のわからぬうちは、入門を許さぬと告げた。

剣客は、数日して、これが納得できたそうだ。」
という話であります。

普通考えると、命がけで修行した方がはやく奥義に達しそうな気がします。

ひろさちやさんは次のように解説されています。

「仏教語に”精進”という語がある。

「努力」の意味だ。しかし、努力といっても、努力のしすぎは精進ではない。

血眼になってする努力はいわば執念であって、仏教は不可としている。

仏教でいう精進は、ゆったりとした努力である。

ゆったりと、そして着実な努力をつづけることを、仏教は教えているのである。」

ということなのであります。

読んでいてなるほどそういう一面もあるかと思いました。

しかし、他の読み取り方もできるような気もします。

釈宗演老師の『臘八示衆』に、

「古人云く、寧ろ緩に失するとも急に失すること勿れと。遂翁和尚云く、寧ろ急に失するとも緩に失すること勿れと。衲は遂翁に与せん。」

という言葉が出てきます。

意訳しますと、昔の人は、ゆるくしすぎることはあっても、厳しすぎてはならないと言っているが、遂翁和尚は、厳しくしすぎることはあってもゆるすぎてはいけないと言ってる。自分は遂翁和尚に賛成だという意味であります。

ゆっくりやってし損じることはあっても、急いでし損じるこはよくないというのが古人の説であって、遂翁和尚は、急いでし損じるこがあっても、ゆっくりしてし損じることはあってはならないとというのであります。

こういう説は、私達の禅の修行の世界ではよく言われていることであります。

また「勇猛の衆生の為には成佛、一念に在り。

懈怠の衆生の為には涅槃三祇に亘る」という言葉もあります。

勇猛果敢に修行すれば成仏は一念にあるが、怠けながら修行すると三祇劫という長い長い時間がかかってしまうということです。

もっとも、この剣術の話は、怠けながら修行するという話ではありません。

ゆったりとした、息の長い精進を説いているのであります。

お釈迦様は「小水の常に流れて、則ち能く石を穿つがごとし。」 とお説きになっています。

小さな水の流れでも休まずに続けてゆくと石にも穴が開くという喩えです。

『禅関策進』の序文にこんな言葉があります。

筑摩書房『禅の語録19禅関策進』から藤吉慈海先生の現代語訳を引用します。

「禅道の修行には最初の関所のほかにまだまだいくつも関所がある。

偽って鶏の鳴声をして関所の門をひらかせて、しばしの難をのがれ、すこしばかり得るところがあって、それで満足しているという輩は、増上慢(思い上がり)の人である。

流れの源はまだつきとめていず、山もまだ踏破しつくしていないからには、警策を手にして、馬に鞭打って一気に遠くまで駆けぬけ、最後の奥深い関所を突破して、それからおもむろに罷参斎の供養の宴を催しても、決しておそくはないであろう。」というのです。

「罷参斎」とは修行を成就して大衆に供養する齋筵であります。

「増上慢」というのはもともと仏教語で「まだ悟りを得ないのに、得たと思ってたかぶること。」であり、今日では「実力が伴わないのに自慢すること。」と使っています。

志が低いと、少しの成果でこんなものでいいだろうと満足してしまいかねません。

志を高くもって、自分のいたらなさを常に自覚していると、この道はまだまだだと思って、いつまでもこれでいいと満足することはないのであります。

この話も命がけで道を求める者には、これでいいなどという気持ちが起きずにどこまでも精進し続けるという意味にとれないかなと思ったりしています。

私の勝手な読み込みだと思いますが、そんな気持ちで今年も精進してゆくのであります。

 
横田南嶺

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