無我だからこそ、人は変われる
『広辞苑』には「鏡開き」は「正月11日ごろ鏡餅を下げて雑煮・汁粉にして食べる行事」と解説されていますが、修行道場では、六日の夕方に鏡餅をさげて、その晩にお汁粉にしていただくことになっています。
思えば昨年の暮れに、修行僧皆で餅つきをしたのでした。
昨年の餅つきは、藤田一照さんもお越しくださって盛り上がったのでした。
お餅も餅をつく前は、餅米でありました。
それがみんなで撞いて餅になり、お供えになり、三が日のお雑煮になり、最後はお汁粉になって、それぞれのお腹に入ってしまうのです。
餅という、変わらない実体があるのではなく、餅米が撞かれて、お供えになったり、お雑煮になったり、お汁粉になってお腹に入ってしまうのです。
不変の実体があるのではありません。
ただ餅という現象として現れているのです。
その現象もまた、鏡餅になったりお雑煮になったりして、流れてゆくものです。
餅のまま置いておこうとしても、だんだんひびが割れたり、黴が生えたりしてしまいます。
同じ状態であることはないのであります。
こういうことを「無我」というのであります。
ひろさちやさんの『マンダラ人生論下』には、こんな話がありました。
「仏教のことばに、無我 がある。いろいろ説明がなされるが、わかりにくいことばである。
そこで、こう考えてみたらどうだろう。
最近の親は、子どもをつくると考えている。
…しかし、昔の人々はそうは考えなかった。
子どもはほとけさまから授かるものだと信じていた。
わたしは、昔の人々の考え方のほうがすばらしいと思う。
でも、いまそれを言うと、現代人は、授かった以上は俺のものだと所有権を主張しかねない。
そこで、わたしは、子どもはほとけさまからお預かりしていると言ったほうがよいと思う。それが仏教者らしい考え方だと思うのだ。」
と書かれています。
そしてひろさちや先生は、
「わたしのこの生命・身体は、ほとけさまのものだ。
わたしは自分の生命と身体をほとけさまからお預かりしているのだ」と説いてくださっています。
無我ということのもとには、自分のものという執着から離れるという教えがありました。
そこでほとけさまからお預かりしているものと受けとめることで、自分のものという執着から離れることができるのです。
中村元先生の『ブッダ伝 生涯と思想』には、「我執を捨てる」として、
「もっとも古い時期の経典によると、「わがもの」「われの所有である」という考えを捨てることが、いわゆる「無我」、つまり「非我」であると説かれています。
修行者はわがものという観念を捨てねばなりません。家族も財産もすべてを捨て、我執を捨てれば、こんなに楽しいことはないという心境を伝える経典があります。」と説かれています。
我が子や、財産についてブッダのこんな言葉がございます。
まず神がいうのです。
「子ある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。
執著するよりどころによって、人間に喜びが起こる。 執著するよりどころのない人は、実に喜ぶことがない」と。
これは分かりやすいように思います。
家族を大事にすることはよろこびなのであります。
しかし、ブッダは、
「子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。
執著するよりどころによって人間に憂いが起こる。
実に、執著するよりどころのない人は、憂うることがない」と答えるのであります。
『法句経』にも、
「わたしには子供がいる。 わたしには財産があると、愚者は悩まされる。 じつに、自己は自己のものではない。どうして子供が、どうして財産が、自己のものであるか。」と説かれています。
中村先生は、「具体的にいえば、家族や財産をわがものと見なしてはならぬ、子供や牛などがあるのを喜ぶのは悪魔のしわざであると考えたようです。」
と解説されています。
そして更に「それでは、なぜわがもの、わが所有という考えを捨てなければならないのでしょうか。
わがもの、自分の所有だと思っているものは移り変わり、いつまでも自分のものでいることはないからです。
それに自分が死んだら、自分のもののように思っていた人々も、ものも、皆、自分から離れていってしまう。
だから自分の所有に執著しても意味がないのです。」
と解説してくださっています。
ブッダは、私のものという時の私とは何か厳密に考察されました。
そして私というのは、五種の構成要素であると解釈しました。
それが五蘊です。
物質的な形(身体)、感受作用、表象作用、意志作用、識別作用の五種です。
その五種のはたらきが互いに作用しあって個人の存在が成りたっていると考えていました。
ワールポラ・ラーフラの『ブッダが説いたこと』(岩波文庫)には、
「要するに、存在するのは五つの集合要素である。
私たちが存在、個人あるいは「私」と呼んでいるのは、この五つの集合要素の結合に対する便宜上の名称に過ぎない。
それらはすべて無常であり、絶えず移ろうものである。」とはっきり説いてくれています。
更に「二つの連続する瞬間を通じて、同一であり続けるものは何一つとしてない。
すべては、一瞬ごとに生起し、一瞬ごとに消滅し、流転を続けている。
ブッダはラッタパーラにこう言っている。
「バラモンよ、それはあたかも、すべてを流し去り、遠くまで流れゆく山間の急流のようなものである。
流れが止むことは、一瞬、一時、一秒たりともない。
流れ続けるだけである。
バラモンよ、人の命はこの山間の流れのようなものである。世界は絶えず流動し、無常である。」
というのであります。
そこでスマナサーラ長老の『無我の見方』には、
「私たちは、ありもしない自我、永遠不滅で絶対に変わらない魂という妄想概念にしがみついてはいけないのです。
これが人間だと言える確固とした実体があるという先入見に寄りかかることなく、「自分という流れ」をしっかり管理して、自分にも他人にも役に立つ人間にならなければなりません。」
と大事なところをはっきり伝えてくださっています。
無常だとか、無我だとかいうと、何か厭世的な気持ちになると思うかもしれませんが、スマナサーラ長老も、
「しかし、無常だからこそ、無我だからこそ、自己の改良・改善ができます。
永遠不滅で、これが人間の自我だと言えるような、絶対に変わらない、確固とした実体などないから、変わることができるのです。」
と説いて下さっているのです。
このことは、今月できあがる私の新著『はじめての人におくる般若心経』でも繰り返して説いていることでもあります。
横田南嶺