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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.11.15
今日の言葉

観音さまが言ったの

鎌倉てらこやの朗読大会では、坂村真民先生の詩を朗読していましたが、ある年芥川龍之介の小説の一節を読んだこともあります。

それは、『戯作三昧』という短い小説です。

これは『南総里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴のはなしです。

『南総里見八犬伝』というのは、『広辞苑』には、

「読本。曲亭馬琴作。全9輯106冊。室町時代、安房の武将里見義実の女むすめ伏姫ふせひめが八房やつふさという犬の精に感じて生んだ、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八徳の玉をもつ八犬士が、里見氏勃興に活躍する伝奇小説。主潮は勧善懲悪。1814~42年(文化11~天保13)刊。」

と解説されています。

この大部の書物を書くのに馬琴は、四十七才から 七十五才まで実に二十八年を費やしているのです。

そうして八十二歳で亡くなっています。

さすがに六十代の頃、筆が進まなくなってしまいました。

思うに任せず悶々として日を過ごす老作家のもとを孫が訪ねてきてその孫の一言が馬琴の心に火を付けたという話なのであります。

小説『戯作三昧』にある、馬琴と孫の会話の一部を読んでみます。

「あのね、お祖父様にね。」

栗梅の小さな紋附を着た太郎は、突然こう言い出した。

考えようとする努力と、笑いたいのをこらえようとする努力とで、靨が何度も消えたり出来たりする。ーそれが馬琴には、おのずから微笑を誘うような気がした。

「よく毎日(まいんち)。」

「うん、よく毎日?」

「御勉強なさい。」

 馬琴はとうとうふき出した。が、笑いの中ですぐまた語(ことば)をつぎながら、「それから?」「それからーええとー癇癪を起しちゃいけませんって。」

「おやおや、それっきりかい。」

「まだあるの。」 太郎はこう言って、糸鬢奴(いとびんやっこ)の頭を仰向けながら自分もまた笑い出した。

眼を細くして、白い歯を出して、小さな靨をよせて、笑っているのを見ると、これが大きくなって、世間の人間のような憐むべき顔になろうとは、どうしても思われない。

馬琴は幸福の意識に溺れながら、こんなことを考えた。

そうしてそれが、さらにまた彼の心をくすぐった。

「まだ何かあるかい?」「まだね。いろんなことがあるの。」
「どんなことが。」

「ええとーお祖父様はね。今にもっとえらくなりますからね。」

「えらくなりますから?」

「ですからね。よくね。辛抱おしなさいって。」

「辛抱しているよ。」馬琴は思わず、真面目な声を出した。

「もっと、もっとようく辛抱なさいって。」

「誰がそんなことを言ったのだい。」

「それはね。」

 太郎は悪戯(いたずら)そうに、ちょいと彼の顔を見た。そうして笑った。

「だあれだ?」

「そうさな。今日は御仏参に行ったのだから、お寺の坊さんに聞いて来たのだろう。」

「違う。」 

断然として首を振った太郎は、馬琴の膝から、半分腰をもたげながら、顋(あご)を少し前へ出すようにして、

「あのね。」

「うん。」

「浅草の観音様がそう言ったの。」

という一節があるのです。

この話は観音さまの話をするときによく使うものです。

いい話であります。

観音様が言ったというその一言で、馬琴は目が覚めるのであります。

「勉強しろ」「癇癪を起こすな」「そうしてもっと辛抱しなさい」、そうすれば今にもっと偉くなるというのであります。

これは、孫を通じて観音様が言われたと書かれていますが、本当は何を言っているのでありましょうか。
 
これは、実は馬琴自身の心の声だと思うのです。

悶々として仕事にも手が着かない、筆が進まないという時に、こんな風に自堕落に過ごしていていいのだろうか、自問自答されたと思います。

こんなことではいけないという、馬琴自身の本心の叫びが、観音様を通じてお孫さんの言葉で現れてきたのだと思うのであります。

観音様とは私達の本心の事にほかならないのであります。
 
釈宗演老師の『観音経講話』には、観音さまとは自分自身であるとはっきりと書かれています。

宗演老師は、その本の中で「私自身が観世音菩薩の現われである」と述べています。

こう言われますとそれは釈宗演老師のような方は観音様かもしれないけれども、自分たちは別だと思われることでありましょう。
 
そこで宗演老師は、更に「多くの人のうちには、それは坊さんの側からそういうのであろう、仏教の見るところはそうでもあろうけれども、我々は人間であって、観音の現われではない、とこう思う人もあるかもしれない。しかし、私に云わせると、どうしても我々は観世音菩薩の現われであると、明らかに云い得ると思う。それは何故かというに、観音というのは、観音すなわち慈悲と智慧と、そして勇猛心のこの三つの現われである」というのです。

智慧と慈悲と勇猛な心、これが観音様だというのです。

そしてそれは自分自身の心の内容なのです。

そこで更に宗演老師は「それは、独り向こうに崇め尊んでいる一つの観世音菩薩のみならずして、我れ自身の内容を叩いてみると、やはり我々は、もとより生まれながらにして大慈悲心をもっているのである」と仰せになっているのであります。

更に宗演老師は、この智慧と慈悲と勇猛心をもっと分かりやすく、このように表現されています。

「今日の学校などで普通にいうところの言葉で申すと、明らかなる智慧、美わしき感情、しかして堅固なるところの意思の力ということになる」というのです。

そしてそれは「こういうものは誰から授かったというものではなく、皆な自分自身の内容に備えているところのものである。

こういうことから、道理上から見ても、信仰上から見ても、我れすなわち観音の現われである」ということになるのであります。

観音様を通じてお互いの心の内容を説いてくださっているのが、観音経なのであります。

 
横田南嶺

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