朗読のすばらしさ
早稲田大学の教授であった池田雅之先生が中心になって始められて、子供達を集めて様々な活動をしていることは昨日ご紹介した通りです。
その活動の中に、「みんなで朗読」という朗読体験の会もございます。
円覚寺の塔頭を会場にして、毎月子供達が朗読を行っているのであります。
そして年に一度円覚寺の本山を会場にして朗読大会を行っています。
そこに毎年、幸田弘子先生がお越しくださっていました。
幸田先生は、舞台朗読の創始者とも言える方でいらっしゃいます。
私が管長に就任してからのことですが、初めてその朗読会に出て、会場を貸している立場でご挨拶をさせてもらいました。
そのついでに坂村真民先生の詩を朗読しました。
なんとその会場には幸田先生がいらっしゃったのでした。
あとでそのことを知った私は、恐れ入って先生にお詫び申し上げたのでした。
すると幸田先生からは、大変に身に余るお褒めの言葉をいただいたのでした。
褒められると調子に乗るもので、それ以来、私は真民詩の朗読ということにも力を入れるようになっていったのでした。
我々は普段書物を読むのには、黙読するのが普通であろうと思います。
あまり声に出して本を読むという習慣は少ないと思います。
しかしながら、昔の教育においては素読という習慣がございました。
寺子屋という江戸時代の教育では、漢文を声に出して読むという素読が基本であったのです。
論語の素読などが主になされていたのでした。
「子曰わく、学びて時に之を習う、またよろこばしからずや、朋有り遠方より来たるまた楽しからずや、人知らずしてうらみずまた君子ならずや」という風に声に出して読むのです。
意味内容を考えるよりも、声に出して読むという素読が大切にされていました。
声に出して読む朗読にはさまざまな効果もあるようです。
朗読で鬱病を克服されたという方のお話をうかがったことがあります。
そのご婦人は、仕事も育児も何でも一生懸命に取り組まれていたそうなのですが、鬱病になってしまいました。
仕事も勤まらなくなり、家事も出来なくなっていったのだそうです。
毎日たくさんの薬を処方されて、ただ暗い部屋でじっとしているという日々を過ごしていたらしいのであります。
自分でも、もうこのまま駄目かなと思った時に、ふとラジオで朗読しているのが耳に入ってきて、その時に泥沼のような心に清らかな魚が一匹スッと入ってきたように感じたとおっしゃっていました。
それから、毎日少しずつ自分で朗読をして、自分で自分の声を耳で聞いているうちに、少しずつですが家事が出来るようになって、だんだん日常生活が営めるようになり、ついに仕事もできるようになったというのであります。
朗読というのは、文学作品などを声に出して読むことですが、これで鬱病をも克服されたという話を聞いて驚いたことがありました。
朗読というと、我々禅宗でも似たようなところがございます。
禅の語録、禅語も本来は素読するというのが、教育の基本でした。
特に禅語の場合は、あまり意味内容を頭で考えるよりも声に出して読んで、その禅語の言葉の響きを大切にするということがございます。
今の時代では、なかなか禅語は読んでも内容まではわからないのですが、坂村真民先生の詩ですと、その意味も理解できますし、そして美しい日本語の響きも伝わるのです。
未来連福プロジェクトというボランティアの団体がございして、主に福島で原発の事故の被害の後、まだ先行きの見えない深い不安の中にいらっしゃる方々を百名ほど鎌倉にお招きしています。
鎌倉の建長寺にお泊まりいただいて、神社仏閣にご案内して少しでも元気になっていただこうという主旨の活動です。
私も微力ながら協力させていただいていますが、毎年真民詩の朗読をさせてもらっています。
毎年必ずといってよいほど読む詩は、二度とない人生だからです。
ある年に、或る町の教育長さんで、あの震災以来一度も笑ったことがないという方がいらっしゃいました。
福島の人達の心の闇というのはそれほど深いものなのです。
真民先生の「二度とない人生だから」の朗読などを聞いていただいて、頑張っていこうという気持ちになっていただいたことがありました。
真民先生の詩は、言葉もよく洗練されていますので、声に出して読み、それを聞くだけで大きな力が得られます。
坂村真民先生の詩だけではなくて、芥川龍之介の小説の朗読などにも挑戦していました。
二〇二〇年の一月には、エルトゥールル号事故の物語を朗読したのでした。
その年は、エルトゥールル号事故から百三十年の年にあたるので、いろんなところでこの話をもう一度しようと思っていたのでした。
ところが二〇二〇年の春には、コロナ禍となってあらゆる行事ができなくなってしまったのでした。
そしてその年の秋に、幸田先生はお亡くなりになってしまいました。
思えば幸田先生にお褒めいただかったなら、私は多分生涯朗読などはしなかったと思います。
褒める言葉というのも大切なことであります。
褒めてくださるだけでなく、幸田先生はわざわざ私の拙い話を聞きに円覚寺にお越しくださったこともあるのでした。
今日は最後に、真民先生の「二度とない人生だから」を朗読したいと思います。
二度とない人生だから
二度とない人生だから
一輪の花にも
無限の愛を
そそいでゆこう
一羽の鳥の声にも
無心の耳を
かたむけてゆこう
二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないように
こころしてゆこう
どんなにか
よろこぶことだろう
二度とない人生だから
一ぺんでも多く
便りをしよう
返事は必ず
書くことにしよう
二度とない人生だから
まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど
こころ豊かに接してゆこう
二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめてみつめてゆこう
二度とない人生だから
のぼる日しずむ日
まるい月かけてゆく月
四季それぞれの
星々の光にふれて
わがこころを
あらいきよめてゆこう
二度とない人生だから
戦争のない世の
実現に努力し
そういう詩を
一遍でも多く
作ってゆこう
わたしが死んだら
あとをついでくれる
若い人たちのために
この大願を
書きつづけてゆこう
横田南嶺