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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.10.10
今日の言葉

宝珠の喩え

先日管長日記千回の記念にライブ配信を行いましたところ、多くの方々にご視聴いただくことができました。

多くの皆様から有難うという感謝の言葉をいただきました。

一番感謝していますのは、この私であります。

皆様のおかげでこうして毎日文章を書いて読んで、些かの老化防止になっています。

中には、毎朝管長日記を聞いてそのあと、二十分坐禅なさっているという方もいらっしゃいました。

これは素晴らしい習慣であります。

簡単な一分の呼吸瞑想を行っていますが、そのあと坐ってくださることが一番有り難いことであります。

坐禅の基本は、肩の力や上体の力をフッと抜いて楽にして、下腹に重心がかかるようにします。

そうして静かにゆっくり呼吸することです。

特に吐く息を長めにすることであります。

そうして息を見つめていれば、それだけで心は落ち着いてきます。

心が落ち着くと、いろんな雑念が湧いてくるのに気がつきます。

坐禅をなさる方がよく雑念が湧いてしまって仕方ないと自分を責めることがあります。

これは気にしなくてもよろしいと思っています。

雑念が湧くということに気がつくというのが素晴らしいのです。

これは、なにも坐禅中に雑念が湧くのではありません。

私たちはふだんいつもあれこれと頭の中で考えて暮らしています。

それが雑念だとも気がつかずに過ごしているのです。

雑念が湧いていると気がつくというのは、それは心が落ち着いている証拠なのであります。

汚れているところにいて、汚れになれきっている人は、汚れいているとも感じないのです。

ところが少しきれいなところにいると、今度は汚れに気がつくようになるのです。

坐禅をしても雑念が多いといって気に病む必要はありません。

その時に摩尼宝珠の話をしたのでした。

素晴らしい宝石の珠と思っていいでしょう。

『円覚経』に摩尼宝珠の喩えがあるのです。

まず摩尼について学んでみましょう。

岩波書店の『仏教辞典』には、

「サンスクリット語マニに相当する音写。

<珠>または<宝珠>と漢訳し、<摩尼珠><摩尼宝珠>などともいわれる。

摩尼はすなわち珠・宝石類の総称であるが、仏典では不可思議な功力をそなえた宝珠にしばしば言及される。

竜王は髻髪(けいほつ)にそれを蔵め、転輪聖王の七宝の一にも数えられる。

特に<如意宝珠>には、悪疾を癒し、蛇毒を消し、濁水を清めるなどさまざまの願いをかなえる力があるとされている。」

と解説されています。

素晴らしい珠だということなのです。

では『禅学大辞典』を調べてみましょう。

「如意珠・如意宝珠・宝珠等というに同じ。

〔法華經〕で衣裏の宝珠を如来蔵・佛性にたとえていることから、佛教では摩尼珠を佛性と解するようにもなった。」

と書かれています。

衣裏の宝珠というのは、こんな話が法華経にあるのです。

『仏教辞典』から引用します。

「ある親友の家で酔いつぶれた者が、親友が衣の裏に縫いつけてくれた宝石に気づかず、生活に追われて困窮し、苦労の果てに、親友と再会して、その宝石のことを打ち明けられるというものである。

この宝石は仏の一切智(すべてを知る智慧)をたとえている。」

と書かれています。

一切智というのは仏心の内容でもあります。

摩尼宝珠について『禅学大辞典』の続きをみましょう。

「この珠の体は青黄赤白黒等の五色を離れ、しかも五色の物が来ればよく映じて毫も昧ますことがない。

またこれを所持すれば福徳円満にして意の如くならざるはない。

これと同じく、佛性は本来諸相を離れているが、縁に従って身心の相を現ずる。

またこれを識得すれば、無礙自在の境界を得る。

故に摩尼珠は佛性又は如来蔵にたとえられる。」

というのであります。

大きな水晶の珠でも想像してみるといいでしょう。

水晶の本体はなにも色はないのです。

ただ外の光が映ります。

それが赤や黄や青に映るのです。

雑念が湧くというのは、その赤や青や黄の色のようなものなのです。

これらの色が映ったからといって何も気にすることはないのです。

宝珠の本体は清らかなままなのです。

暗い色が映ったからといって、落ち込むことはありません。

逆に明るい色が映ったからといて、喜ぶこともないのです。

その本体は変わることはないのです。

心の本体は摩尼宝珠のようなものだと気がつくことが修行の大事なことなのです。

『円覚経』には、清らかな摩尼宝珠には青黄赤白黒などの色が映るので、愚かな者は、摩尼宝珠に五色の色があると思ってしまうと説かれています。

それと同じで、心の本体は清らかであるのに、心に雑念が映るので、心に雑念があると思ってしまうのです。

本体は変わることなく清らかなのです。

映る雑念に振り回されることはないのです。

『証道歌』には「摩尼珠、人識らず、如来蔵裡に親しく収得す」という言葉があります。

禅文化研究所の『証道歌』にある山田無文老師の提唱を引用しましょう。

「人々本来、摩尼珠という結構な珠を一つずつ持っておる。

摩尼は翻訳をして、如意という。如意珠である。如意宝珠だ。

それさえ手に入れば、あらゆる幸福がそこから生まれ出て来る。

そういう結構な珠をみんな一つずつ持っておるのだが、みんな知らんだけである。
摩尼珠、人識らずだ。」

というのであります。

更に「如意宝珠という結構な珠を人々が持っておるのだ。

それを悟れ、衆生本来仏だと。

こう仏法はやかましく言われるのであるが、現代の人は、そんな仏だの神だのという観念はいらん、今日のパンをくれ、ボーナスをくれ、その方が大切だ、と言うておる。

そういうところにみな尻を据えておるが、まことにお気の毒じゃ。

摩尼珠、人識らずだ。

このお互いの仏性の珠を一度手に入れれば、求めなくとも、そこに衣食住のごときはおのずからそなわって来るのだ。

すべての幸福がこの摩尼珠から出て来るのである。

お互いの人格さえ完成すれば、ものの世界は求めなくても、そこについて来る。」

「この大乗仏教において、本当に仏性が分かれば、見性ができれば、生活などは求めんだっておのずからついて回って来るのだ。そういう結構な珠があることをみな気がつかんから困る。」

と説いてくださっています。

皆素晴らしい宝珠を持って生まれています。

それが目で見たり、耳で聞いたりしてはたらいているのです。

素晴らしい宝珠なのだと気がつくことが大切なのです。

 
横田南嶺

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