書を読むことの是非
そうして、ご命日に唱える七言絶句を作るのであります。
達磨大師の語録を読んでいてこんな言葉を見つけました。
ちくま学芸文庫『達摩の語録』にある柳田聖山先生の現代語訳を参照しましょう。
「道を修める方法として、古典によって理解を得る人は、個性の力が弱いが、もし具体的な事実に即して理解を得る人は、個性の力が強い。
事実に即して理法を見る人は、どこにあっても忘れないが、古典にたよって理解した人は、実際の事件に出遇うとたちまち眼がくらむ。
経典や注釈書によって、事実を論議するものは、理法にうとい。
口に事実を語り、耳に事実を聞くよりも、自分の身心に親しく事実を経験する方がよい。
もし事実そのものが直ちに理法であるような人(の悟り)は深く、いっぱんの人はとてもそうしたところを計り及ばぬ。」
と書かれています。
最初のところの原文は、
「道を修むる法は、文字の中に依って解を得る者は、気力弱きも、若し事上より解を得る者は、気力壮んなり」
となっています。
「文字」を「古典」と訳し、「気力」を「個性」と訳されています。
「文字」は書物一般とみてもよいのではないかと思います。
原文の「気力」について、柳田先生は、註釈のなかで「身体の活動力の根本となるもの、浩然の気などというように、身体中に充満するエネルギー」と書かれています。
書物によって理解する人は、気力が弱いけれども、実際の物事に即して理解を得る人は、気力が強いということであります。
そのあと更に、
「道を修める人が、しばしば賊にものを盗まれ、あるいはすっかりはぎとられても、愛著の心がなく、また悶え悩まず、またしばしば他人に口汚くののしられ、殴り飛ばされても、悶え悩まぬなら、このような人こそ、道心がいよいよ壮んとなり、年を経てもやむことを知らず、自然にあらゆる順逆の境界に在って全く無心であることができる。
それで、具体的な事実に即して、それにつながれぬ人こそ、大力のボサツと言ってよい。
もしも、道を修める心を、すぐれて壮大にしようと思う人は、必ず心を常規の外に置くがよい」
具体的な事実に即して、しかもその事実にひきづりまわされないことが大事だというのです。
そのためには、心を「常規」の外に置くのがいいと説かれています。
「常規」の原文は「規域」となっています。
註釈には、「常軌の領域を超えたところ、常識的な価値を脱したところ」の意ではないかと書かれています。
常識的な価値を疑うことも大事であります。
この頃は本を読むことが少なくなっているとか、今の若者は本を読まないということをよく耳にします。
これも本をよく読むことがいいことで、本を読まないことは人間の劣化であることを前提にしているように思われます。
私も本を読むことは、子どもの頃より好きでありますので、本を読まないよりは読む方がよいように感じます。
学校でも読書を勧められるものです。
しかし、読みさえすればいいのか、読んでばかいでいいのかというのも問題であります。
私なども今自分の部屋には本があふれています。
自分で購入する本もあれば、いただく本も多くあります。
本に囲まれて暮らしているようなものです。
しかし、少し考えてみれば、昔はそんなに本はなかったはずなのです。
そして今よりももっと貴重なものだったと察します。
禅の修行では本を読むなということを説いています。
夏目漱石の小説『門』にも、主人公の宗助が、苦労して禅の修行をするよりも禅の書物でも読んだ方がいいのではと思って、宜道という禅僧に質問するところがあります。
「いっそその道の書物でも借りて読む方が、要領を得る捷径ではなかろうかと思いついた。
宜道にそう云うと、宜道は一も二もなく宗助の考を排斥した。
「書物を読むのはごく悪うございます。有体に云うと、読書ほど修業の妨げになるものは無いようです。
私共でも、こうして碧巌などを読みますが、自分の程度以上のところになると、まるで見当がつきません。
それを好加減(いいかげん)に揣摩する癖がつくと、それが坐る時の妨になって、自分以上の境界を予期して見たり、悟を待ち受けて見たり、充分突込んで行くべきところに頓挫ができます。大変毒になりますから、御止しになった方がよいでしょう。」
というのです。
「揣摩」というのは難しい字ですが、
「自分の心で他人の心をおしはかる」や「おしはかって、真実を窮めようとする」ことをいいます。
そこで思い出すのがやはり『荘子』にある話です。
斉の国の桓公が、ある時、広間の上で書物を読んでいました。
広間の下では、車大工の扁(扁は名)が車の輪を削っていました。
手にしていた椎と鑿をやおら傍らへ置くと、扁は広間に上がりこみ、桓公にたずねて言いました
「ご無礼ながらおたずね申します、お殿様の読んでおられるのは、いかような言葉でございましょうか。」
桓公は「聖人の言葉だ。」と答えます。
「その聖人はご存命でございましょうか。」と問うと「もう亡くなられた」と答えました。
すると「ならば、お殿様の読んでおられるのは、古人の精髄のただの絞り粕にすぎませんわい。」と言ったのでした。
「自分が読書をしているのに、車大工にどうしてとやかく言われようか」と腹を立てる桓公に、車大工の扁が答えました。
「手前、車作りの仕事で申し上げます。
輪の削り方でございますがゆっくりと静かに削りますと、嵌めこみが甘すぎて締まりが悪く、急いて激しく削りますと、渋すぎて嵌まりません。
ゆっくりでもなく急きもせず、よい按配に加減いたしますのは、ただ諸手で覚えて、心に落ちるより他ございません。
口で説き明かすことは適わずとも、その間には呼吸ってものがある。
それは、手前、せがれにも教えられず、せがれも手前から受けることができません。
そんなわけで、齢七十にもなりますが、老いてなお輪を削っておるのでございます。
古の聖人は、誰にも教えられぬ本当の道と一緒に、もう亡くなられた。
ならば、お殿様の読んでおられるのは、古人の精髄の絞り粕にすぎませんわい。」
と答えたのでした。
講談社学術文庫の『荘子』にある池田知久先生の訳を参考にしました。
古人の糟粕と言われるものです。
漱石の『門』にももし読むのなら、『禅関策進』などのように「人の勇気を鼓舞したり激励したりするものが宜し」と説かれています。
自らの非を知り、自分自身を激励するための読書ならよいということです。
書を読むことは大事だとは思いますが、読んだだけで分ったような気になるのも恐ろしいものです。
書物を読むことの功罪を知った上で読むのがよいかと思います。
横田南嶺