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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.09.03
今日の言葉

よく聞いて、思惟して、身体で実践する

首楞厳経に、「聞思修より三摩地に入る」という言葉があります。

「聞思修」とは岩波書店の『仏教辞典』には、

「悟りに導く智慧を修行の段階にしたがって三段階に分類したもの。

すなわち、

一<聞慧>は、教えを聞いて了解する智慧、

二<思慧>は、道理を思惟して生ずる智慧、

三<修慧>は、観想・修習して体得する正しい智慧、の<三慧>をいう。

これは仏の教えを聞き、その法を受容して、自己の心中に思い浮かべて、反復しては正しく理解し、教えどおりに実践修行して、ついに悟りに至ることを段階的に分類したもののこと。」

と解説されています。

要するに仏様の教えを聞いて、よく思って、実際に修行するのです。

「三摩地」は三昧と同じで、「心を静めて一つの対象に集中し心を散らさず乱さぬ状態、あるいはその状態にいたる修練」です。

浄土真宗の蜂屋賢喜代先生の著書に『聞法の用意』(法蔵館)というのがあります。

その中には、題にもなっている聞法について詳しく説かれています。

一部を引用します。

「求道は聞法となるのであります。

それについて、聞、思、修ということがあります。

第一には聞くのです。

智慧のありだけを尽してやってきた人生に、安心がなく、歓喜がなく、幸福がなく、一切の苦悩がなくならぬと気づいて、道を新たに求めるならば、自力我慢の方向転換をして、他力救済の道を聞くのであります。

聞くというのは人から聞くのであります、

古人からでも今人からでも聞くのであります。

耳から聞くばかりが聞くのではありません、眼からも聞くのであります。

書物を読むということは、今人や古人から聞くことであります。」

と説かれています。

禅で学ぶ『十牛図』においても、第二番目の「見跡」には、

「経に依って義を解し、教を閲して跡を知る」とあります。

経典や聖人と呼ばれた人たちの書物によって、その道の意義を理解して、昔の人が残してくれた教えをよく学んで、そして古人の歩いて行った足跡を見つけるということです。

禅の修行においてもはじめにはよく聞くことが大切であります。

次の思うとは、蜂屋先生は、

「聞いたことをわが身にあてはめて、静かに考えるのであります。思惟し思考するのであります」と説かれています。

そうして実際に修行するのです。

蜂屋先生は、その著書の中で道元禅師の教えについて紹介されています。

以下引用します。

「お前達は、道が得られぬ得られぬというが、坐禅ばかりしていたって得らるるものではない。

何事をも顧みず打坐せよというのは、それは本の腹をつくることが大事であるということであって、その腹をつくるためには、此の五体をつかうのじゃ。

腹をつくることが大切じゃというて坐禅ばかりしていたって、それだけでは腹ができるものではないぞ。

五体をそれ相応につかうてゆくと、自然に腹ができてくるのである。

まず第一に、此の眼には木像画像の仏を仰ぎて、経典も読むのである。此の口では唱えるのである。

此耳には聞法するのである。

此手では仏を拝むのである。

そして此の脚では行脚して、道をたずねて聞法修行をするのである。

そうして心がけてゆくと、自然に腹ができて、一心の華がひらけるのである。

腹ばかりこしらえようと考えて坐禅ばかりしていたって、そんな不精なことでは、道は得られるものではない。

此の五体というものは、そのために与えられているのであるから、懈怠をせずに、精々使うてゆかねばならぬのである。

しかし、人間はそればかりしているわけにはゆかぬ。

食うてゆかねばならぬ、食うてゆかねば命がつづかぬから、此の五体を生活のためにもつかうのである。

けれども、本当は心の救わるるために用ゆるのが本当の用い方というものである。

こういうことをいうと、禅宗にも似合わず、変なことをいうかと思うかも知れん、また他の宗旨のことのようにも思うかも知れんが、決してそうではないのだから、深く心に銘して置かねばならぬぞ」

というように説かれていて、更に「という意味のことが、ある書物に出ていました。私は成るほど、さすがは一宗の開山であると、ひどく感心したことであります。」というのであります。

道元禅師のどの書物にあるのか存じ上げませんが、この身体全身を使って道を求めてゆくことがよく分ります。

五体まるごとを用いて修行してゆくのであります。

真言宗ではよく「三密」ということを申します。

『仏教辞典』には、

「密教において、仏の身口意の行為を<身密><口(語)密><意(心)密>の三密とする。

密教の修行によって、衆生の三業は仏の三密と合致して、即身成仏する。

すなわち、身体により手印を結び、口に真言を読誦し、心に本尊の観想を行うことにより、衆生と仏とが相い結び合い(三密相応)、仏が慈悲心により衆生の行に応え、行ずる者が信心により仏の顕現を感得する(三密加持)とき、衆生は本尊との合一を達成し、即身成仏を得る。」

と解説されています。

禅ではよく本来仏であるとか、心がそのまま仏であると申しますが、実際にはよく教えを聞いて、よく思い考えて、実際に五体を使って実践して身体に染みわたってゆくものであります。

特に身体を使って実践することが重要であります。

 
横田南嶺

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