つねに警戒を
「大正時代に駐日大使をつとめた仏詩人クローデルは記した」
「大地は堅固さというものを全く持ち合わせていない」。
「詩人が小石、砂、溶岩、火山灰が堆積した国土の不安定を強調したのも、これが関東大震災直後の文章だからだ。」
「その住民は「危険に満ちた神秘」に囲まれていた」と記したのは、毎日新聞の二〇一四年十月四日の余録でありました。
また二〇一一年の九月一日の余録には、
「この動く大地の上では、日本人はただ一つの安全策しか見いださなかった。それは自分をできるだけ小さく、できるだけ軽くすることである。薄く、重さがなくほとんど場所もとらぬようにすることである」
というクローデルの言葉が記されています。
そして余録には、「88年後、日本人の暮らしは様変わりした。ただ今度の震災でも人々の自制心と思いやりは世界の注目を集めた」
と書かれています。
これは東日本大震災の年の記事なので、あれから十二年が経って、今年は関東大震災からちょうど百年になります。
新聞やテレビなどでも関東大震災を振り返る報道がたくさんございました。
円覚寺でも関東大震災で、ほとんどの建物が倒壊しました。
朝比奈宗源老師は、その関東大震災を経験なされているので、その文章を紹介します。
「大震災回顧」という『円覚』(昭和三十年九月一日)誌上に書かれたものです。
今円覚寺の開山忌は十月三日に行っていますが、この頃は九月三日に行われていたのでありました。
もともと御開山の命日が九月三日なので、その日に合わせて。九月一日に皆で支度をしていた時のことであります。
少々長いのですが、読んでみます。
「大震災は大正十二年(一九二三) 九月一日である。 九月三日は当山開山佛光国師の毎歳忌に当るので、一日は早朝から一山総出仕で諸堂の荘厳をし、まず開山塔舎利殿から大方丈をすまし、午後に佛殿をしようと、点心をして一休した、十一時五十八分がその時間である。
私も宗務院にあててあった離れの客間で、宗務当局、来客と対談中であった。
どしんという恐ろしい大音響がしたと思うと、みしみしと屋鳴し震動して来た。
私ははじめ地震とは思わず、横須賀あたりの火薬庫の大爆発だと思い、その現場の損害など頭にえがいていた。
ところがみしみしがひどくなり、同席した井上宗環総理(総理は当時寺の執事長)、天野俊道執事、斎藤玉応師等が、相ついで庭に飛び下りた。
私もその後に続いた。
さきにあった竹垣にしがみついて見るともなしに見ると、今までいた建物も、大常住の庫裡も、音もなく土烟をあげてつぶれた。
この時私は、たしかに何も音響をきかなかった。
眼の前で井上総理がふり落されそうになっては垣根にしがみついていた。
それがおかしくさえ思えたし、又、これが人間の世界だ、開山忌が滅山忌となったとも思い、庫裡のつぶれたのを見て、食後たしかに庫裡に残っていた寿徳庵の石窓和尚、東慶寺禅忠和尚のことが気になった。
少しすると、つぶれた庫裡の茅屋根の破風の破れ目から、 煤だらけになった禅忠和尚が顔を出し、私共を見つけると、「ばあー」といって笑い、茅をかきわけて出て来た。」
と書かれています。
大きな揺れだったのでしょうが、朝比奈老師は実に冷静であったことがよく分ります。
「これが人間の世界だ、開山忌が滅山忌となった」と思ったというのですから、さすがに長年坐禅なされて、諸行無常であることははっきりされていたのです。
更に「一寸おちついたので、ふらふらしながら石段を下り、杉林の処で余震の第一回をすごし、尭道老師の安否を問うため僧堂の方へ行くと、老師は隠寮の佛間で遭難されたが、かすり傷一つされなかったので、震災には竹藪が安全だときいたので、お伴をして鉄道づたいに自坊の浄智寺へ行った。
浄智寺も伽藍はみなつぶされていたので、戸板を藪の中にしき畳をしいて老師の座敷とし、隠侍を二人侍せしめて、私は円覚寺へとって返した。
伽藍は、佛殿、大方丈、庫裡、書院、僧堂は禅堂、舎利殿、隠寮、塔頭諸寺の建物も殆んど全壊、開山塔、時宗公廟、夢窓国師塔所、経蔵、山門、僧堂庫裡だけが残った。」
というのです。
寿徳庵の石窓老師は庫裡で圧死され、又、続灯庵は火災をおこし、女性が一名亡くなっています。
朝比奈老師は、すぐに遭難者のための焚き出しをなさったり、お亡くなりになった方の回向や、警戒等に当ったそうなのです。
「特に堯道老師が数千円を喜捨し、 玄米を求めて山門下にかまどをつき、粥を煮て往来の人々に接待したことは、空腹と疲労にあえぐ人々をどれだけ慰めたか分らない。」
と書かれています。
私なども修行時代に、よく先代の管長足立老師から、修行道場では常に米をたくさん備蓄しておかないといけないと言われていました。
それはなぜかというと、いざ災害の時には、修行道場では今も薪を使って竃で煮炊きしていますので、米さえあればいつでも炊き出しができるのです。
「大津波、台風、火山の噴火、地震、大洪水などたえず何か大災害にさらされた日本は、地球上の他のどの地域より危険な国であり、つねに警戒を怠ることのできない国である」という言葉を改めて胸に刻む九月一日でありました。
横田南嶺